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【BS11】偉人・敗北からの教訓「第31回 北政所・悲しき豊臣家臣団の分裂」2024年2月10日放送分見逃し配信



【BS11】偉人・敗北からの教訓「第31回 北政所・悲しき豊臣家臣団の分裂」2024年2月10日放送分見逃し配信

[音楽] 偶然の勝利はあれども敗北は全て [音楽] 必然日本の歴史を彩った偉人たちはいかに して破れていったのかその裏にはどんな 原因と誤ちがあったの か今回は豊秀吉の妻北の満所こと骨の敗北 をきます秀吉の天の裏にはが息子のように 育てた下団の存在がありましたしかし秀吉 の死後家神団は分裂し豊は滅亡の道へと 進みます骨にこの運命を変える手立ては なかったのでしょう か破し者たちの失敗から学ぶ人生 哲学異人敗北からの [音楽] 教訓 歴史上の偉人たちが犯した失敗から私たち は何を学ぶの か偉人敗北からの教訓進行役の中西百です そして歴史作家の伊藤潤さんですよろしく お願いしますよろしくお願いしますまこの 番組で色々な人物を見ていると私が思って いる以上に中世の女性たちてこう発言権 だったりとか権力を持っている人がいるん だなというのをいつも驚くんですよねま そうですねま現代生きる我々の夫婦のあり 方とかえそういったものとは全く違ってい たわけですよねもっとえま主人の人と一緒 に運命共同体でありなおかつ家を盛り立て ていかなければいけないそういう存在だっ たんですねうんさそして今回はこの人豊 秀義の妻北の満所の敗北に注目していき たいと思いますま北の満所はオという呼び 方まあるいはねねという方もいらっしゃる と思うんですけれども今年ちょうどあの 没後400年という節目の年だそうなん ですねあでもやっぱりオといえば秀吉のも 天下鳥を若い時から支えてきたっていう イメージがありますけども実際はどんな人 だったんでしょうかいやもうこれは秀吉に とってなくてはならない存在だったんです ねえま若い頃はですねえ秀吉の良き相談 相手としてでまえ年取ってからはですねえ 主に豊富政権の調定や自社に対するえ外交 窓口としてですねえ非常に活躍しましたで それだけではなくてやはりえオはですねえ 秀吉に対して還元できる立場だったんです ね例えばえ理の例をあげますとねえ秀吉が まあ一次の怒りに任せてじゃないですけど 理に説服を命じますよねそれに対してそれ は間違ってますという形で秀吉に還元をし てなんとかそれを詫びを入れればえま許し てやるよっていうとこまでは持ってったん ですねそんなこともしてたそんなことした んですとこその後まは張ってね腹切っ

ちゃうわけですけどねえですからえま当時 のえ奥さんっていうのはですねま相談役で あり一部の事業の責任者でありまた共同 経営者そういった立場だったんですまでも この夫婦に人参逆でこう作り上げてきた 豊臣政権がま秀吉が亡くなった後にま崩壊 してしまうじゃないですかそこにはこうオ の何か失敗みたいなものもあったん でしょうかはいま残念ながらねあのオが もう少し何かをやればえここまでそこまで 早くですねえトヨ向が放火しなかったんで はないかと思いますただま失敗として しまうとちょっとねおもかわいそうだなっ ていう点はあるんですけどまでも打つては あったと思うんですね今回はそんな北の 満所の敗北の理由を紐解きながら明日を 生きるための教訓を探していき ますまずは北の満所とはどんな人物だった のかを振り返りますこちらをご覧 ください天人と豊秀吉の妻北の満所ことオ は決して良い家柄の生まれではありません でし た1549年に尾の国旭日村で生まれたオ は小に使える火麻の長勝の幼女となり ますこの長がと吉郎の中を取り持つ形2人 は結ばれまし [音楽] た12歳という年のさなどから母の反対も ありましたが兄の後押しもあり当時として は珍しい恋愛結婚で結ばれたと言い ます秀吉の妻となったオは親族や地元で 見込みのある若者を見つけると我が子同様 に育て秀吉のを えそんなの女のを得て秀吉は八の勢いで 出世していき ます北大のアを滅ぼした際には一国一条の あとなりさらに中国方面軍の司令官を任さ れ [音楽] ます本寺ので織田信がなくなると事業的な 継者となりやがて日本全国を支配下に置く ことに成功したの [音楽] です天下人となった秀吉が関白に 登り詰めるとオも北の満所という称号を得 まし た夫婦2人三脚で豊富権を成立させたオは 子の家臣たちからも大変慕われていたよう です しかし1598年に秀吉が亡くなった後に は悲しき運命が待ち受けていまし たかつてオが育てた豊子の家臣たちが2つ に分れ関ヶ原の戦いで衝突したの ですこの家神団の分裂衝突こそがオの敗北 です

にの勢力は見る見るうちに徳川へ取り込ま れは滅亡しまし た骨が育てた家臣たちはなぜバラバラに なってしまったの か今回は北の満所骨の敗北を紐解き ますさここで北の満所の人生の主な出来事 を振り返っていきます見てみるともう秀吉 が亡くなるまではもう一連高勝というか もう2人で1つの事業をやってきたって いう感じですよねままさにあの夫を支える 妻の典型のような感じですよねはいうん 特にま長浜上手時代の秀吉はですねえ出世 につく出世ですからほとんどま自分の所領 のですねえ両国当時ができなかったわけ ですよねその時にですねあのオが代わりに え両国当時まで関与してたというあが残っ てるんですねうんま転生13年に秀吉がえ 白の宣言を受けてですねオがですね北の 満所という名前になってですねえそっから の活躍というのはさらにえ大きくなってく わけですねやはり調定やえ代謝体重に対し てですね事項の挨拶やえ行事へ参加したり また同等品そういったものをですね欠かさ なかったとで度々長頭を訪問してるという えそういうですねえ記録も残ってますし またあの信長の時代に非常に関係が悪く なった本との外交もえおが担ってそれで 非常にうまくいくようになったという事例 もあるんですねあすごい役割を果たしてた んですねいもう本当に秀吉にとってなくて はならない存在だったっていうのはすごく わかりますよねうんそうですねうんでこの オと秀吉の結婚ですけどこれあの当時とし ては多分珍しいと思うんですけど恋愛結婚 だったんですかまはっきり恋愛とはあの わからないんですけどそうなんじゃないか というの言われてますよねああま吉のこと がもう好きだったっていうことあるかも しれませんけどうん以上にやはり当時の 恋愛感情とか結婚感っていうのを考えると ですねやっぱ人を見る目ってのは大事なん ですよああいわゆる秀吉の将来性を見込ん だんじゃないかなって私は思うんですよね なるほどこの人はいずれ出世するだろうと いうあもしでもそれで秀吉選んだとしたら ものすごい先見性ありますもうすごい先見 性だと思いますよまうちなんかもねうちの 家内はま元々あんたのことあんま好きじゃ なかったんだけど将来性があるかもしん ないと思ってえ結婚相手に選んだという ことをどうどうと言ってます そうなんですあでもま見込み違いかもしれ ませんそんなことないですすごい先見の目 があると思いですけどまもそっかちょっと そういうこうまビジネスのような割り切り

方をしてあの選ぶっていうのはあったのか もうんいやも当時の価値観からすればそう いう考えをするということが大きいと思い ます秀吉の妻となりながらも子宝に恵まれ なかったオには大きな役目がありました それは秀吉と豊家の未来を支える家臣たち の育成ですこちらをご覧 ください 1573年オの夫柏秀吉は大美長浜城を 与えられ一国1条のアジに出世しまし [音楽] た岐阜城の城下町で暮らしていたオもこれ を気に夫婦揃って長浜城に住むことが許さ れ [音楽] ます戦国時代主を専門とする歴史学者尾田 さんによる とこの頃の秀吉小夫婦は大きな不安を抱え ていたと言い ます戦闘代々の武士はえそれなりのやはり 従者がいましたから秀吉の場合はもちろん 全く0からの出発ですのでまその辺の不利 益っていうか不利はありました ね民上がりの秀吉は優秀な家臣がいない中 でも同僚たちに劣らない活躍を見せてき まし たしかし広い領地を与えられた以上信長 からはこれまで以上に多くの兵の動員を 求められ ますしかも信長の台になってからのおは 続き分のをするための人材も足りませ んそこで夫婦の親族や地元の若者を使うと し骨が母代わりとなって鍛えながら育てて いったの ですまこれがいわゆる子のま秀吉下診断と いう言い方をして子供の頃からえそれこそ え一長の1人前のま武将に育て上げてい くっていうことでまオがまいろんな生活だ とかえ武将というものはどういうものなの かっていうねそういう教育担当もしていた 可能性はあり ますこの頃にオが育てたと伝わる若者は 多くい [音楽] ます秀吉の親族だった尾張出身の加藤清正 や福島 正典大江の国でスカウトした石田光成や 加藤 義明 人質として預かっていた黒田 長彼らは高年秀吉の天下の主力となり大名 にまで出世してい ます日本主を動かした女性に注目する歴史 学者ハーバード大学で日本の歴史を教えて いた北川さんは秀吉とオの関係について

こう話し ます今までなかったあののこう家を立てて いくわけだからまそれはやっぱり2人で力 を合わせなければいけない2人はこう一緒 にまいわゆる手を取り合ってこうどんどん 出世をしていったんじゃないかなと思い ますオの妻としての活躍ぶりは秀吉の君 小田信長の耳にも届いたようで骨に直接 所場を送りこう褒めてい ますどこを探しても はあなたほどの方を2度と見つけることは でき ない信長が家臣の妻にわざわざこんな所場 を送ることは 珍しく骨という存在の大きさが伺え ますまたこの所の中 で言いたいことがあっても全て言うのでは なくある程度にめておくよう に もしています言いすぎるなよということは 言っていることを知っていたわけですよね やっぱり彼女はものことをはっきり言って いたんだろうなで周りもそれを知っていた んだろうなと思い ます夫の秀吉はしっかり者のオに支えられ 日本の支配者に登り詰め ます1585年には武として初の幕になり その妻であるオも北の満所の称号を得 ますこれでオの社的地は一変しまし たオの立場からしてその自分はどこのもう 名けのあの出でもないとでどういうこう 繋がりをあるのかなと考えた時に自分には やっぱり夫のえしかた綱がないとそこで北 の満所という証とまあの社会的なこうクラ スっていうのをこう上げることができたで それっていのは秀吉がいてもそしてどこか でこう戦死したりとか拍子したりしても 彼女は亡くならないわけですよ ねさらにオは大名波の1万国もの領地を 持ち経済的にも自立していまし た高い地位と安定した暮らしを手に入れた ですが恵のが ですそれでもは多くの若者たちを我が子の ように愛し育てあげまし た加藤清や福島ら小の家臣に加え豊の容や 人質となった子供たちも数多くすってい [音楽] ます将はの元で暮らし実の母のように慕っ ていたと言い ます子の中でもオは秀吉の継者候補であっ た秀後の小早川秀明に特に目をかけ朝鮮 出平の際には戦場に出すことを嫌がりまし [音楽] たすごく大事に育ててきた育ててきた息子 を戦場に送らなければならないで母として

そういう時にどう思ったんだろうと思うと やっぱりこう身のちぎれる思いだったん じゃないかなと思い ます実の子ではない若者たちに愛情を注ぎ 続けた オオの大寺高代寺の尚さんは多くの家臣 たちを育てたについて ます実の子供がないからねねさんはみんな 平等に扱いたしみんなから愛されたんです 多くの子の武将たち全部母親としてですね 育てみんなネさん大そういう関係が徳川も 豊も全部の大名にねやられたのはやっぱり ねさんが子供がいないっていう強みです [音楽] ねこのが1岩のようにい絆で を末長支えていくオはそんな未来を夢みて いたはず [音楽] ですいやここまでこうね息子たち容子たち にこう慕われているってのすごいですし なんか今で言うところのあの相撲部屋の 女将さんみたいな感じですよねええまさに そうですよねえあのやはり長浜城の時代 からえまお互いま吉との間に子供ができ ないということはまあのオは自覚したん じゃないかなと思うんですよねでさらにま 秀吉にま演者が少ないというのも将来的に 問題になるんじゃないかなっていうことも 分かっていたということでえま早く手を 打っておいたっていうことだと思うんです けどえ当意親戚などから容姿をもらいまた え若者を預かって1枚の武将にえ育て上げ ていたということはかなりオはですね先見 の名があったわけですよねうんえこういう 後継者をちゃんと育てないといけないん だっていうその発想もやっぱりオから出て きたものなんですかねだと思いますけどね えま秀吉というのはま日々の仕事に忙しい ですからえ先々を見据えたえこういった 考えまこういった施策というのはえオの方 から出てきたんではないかなと思うんです よねまさにですねあの橋というのはえ秀吉 が今尾になってま武を上げてね出世してく という部分を担いま将来をえオガになって たという形でうまく2人3脚ができてたん です ねあとあのテアにあった信長のオに当てた あのお手紙をすごくこう面白いなと思って もう秀吉にはこんな素晴らしい人はもう どっっと現れませんよみたいなオはま本当 にこう自分が育てた家臣たちだけではなく てそういった信長ですとかと天皇とかも 本当にいろんな人たちから慕われて愛され ていたんだなっていうのが伝わってきます けどもそれはずばりどこに理由があると

思われますかうんまそうですねやはりあの 俺の場合点が聞いてえコミュニケーション 能力にもえたけていた点じゃないですかね 頼りに死骸があるというそういうですねえ 女の人だったんでないかなと思いますねで そうなってくると当然人間性も信頼できる ということで多くの人たちと親し関係を 気付けたんですねオがいなかったら天下も 取れなかったかもしれないと言ってもいい ぐらいだと思うんですよねはい一例を 上げるとですねやはり秀吉のえ天下取りの ための1つの大きなターニングポイントと なったのはですね静ヶ岳の戦いで勝った ことだと思うんですねえこの時えこの戦い の鍵を握ったのは前田俊なんですねそう ですねええまたまたまというかですねえ まだまだえ信長がですね尾の1大名だった 時代にですね低い身分の家臣たちの長屋で えま秀義家と前田とCAが非常に近くに あってですね味噌や使の貸をしてたって いう伝承もあるぐらいでそれだけえオとま あの都市の奥さんの松さんえこの2人 仲良くたと言われてますでそん時にですね 月そういった関係もあったんで静ヶ岳の 戦いの前にえ前田を味方につつけるないし はえ戦わないでえ中立を保たせるための 外交をえオがになったんではないかなて 言われてます ね親の心こらずとは昔も今も変わらぬ 現実子供にどれだけ愛情を注いでも 思い通りになるとは限りませんから ね 豊富政権を支える優秀な人材を数多く育て たオですがパートナーである秀吉が 亡くなると運命の雲雪は急激に怪しくなり ますやがて東西を二分する関ヶ原への カウントダウンが始まりますこちらをご覧 ください 1598年天下人豊秀吉がこのよを去り ます継者となった秀よりはまだ6歳 でその母ヨド殿の発言力が急速に強まって いき ますこの時オの立場が危くなったかという と実際はそうでもなかったよう です秀吉とオには多くの陽子勇がいました がその1人咲子が五天皇にぎまたも2代 将軍となる徳川秀にいでいまし たそのためオは天皇と徳川の後継者両方の 義理の母という立場になり ますまた豊の性質としてひよに対しても母 という立場となり ます天皇家と徳川家と自分の豊の中で母で あるという地を占めたことで彼女はもう ほとんど 無敵と言っていいと他に類を見ない状況に

なってい たこの頃オは巨匠としていた大阪城を出て 京都に移ってい ます通説では骨とヨ殿が対立し距離を取る ためだったと言われてきまし たかし 田さんはオの天は武の妻の務めを果たす ためだったと推察し ます武将の妻の役割は2つあって1つは夫 のボダをとうということともう1つは泣き 夫の後釜ですね後継者これを育てるトトミ の場合その泣き夫の母をう方 をがけ持ってえ継者を育てるという役割を ヨ殿が担っ たひよりを支え育てる役割を淀殿に託した オは京都で夫秀吉を養しながら性を過ごす つもりだったと言え [音楽] [音楽] ます の家たは朝鮮をにいわゆる武断派と派にれ 対立していまし たそして翌年にはブダ波メンバーが派吉田 充の屋敷を襲撃し ます愛情を注いで育ててきた家臣同士の 衝突にオは心を痛め [音楽] ますにしたのが徳川家康でし た家康はま5大筆頭という立場ですからま 秀が成人するまで中継でいてもらいたいな と いう家康はオの期待に応え豊富中の衝突を 音便に解決し ますしかし一方でこの時に得たの信を利用 し家康の度がるに変わっていき [音楽] ます家康は重前田年死後の前だけを入れる と年の妻である松を人質とし味方に 取り込み ます続いて津120万国の上杉家を ターゲットにひよへの反を立ててとをけ 政権の分断を狙ったの です徐々に戦へと向かう天下の情勢にオは 不安を抱き [音楽] ますそんな骨の心配も虚しく上杉家の罰を 掲げて家康は兵を起こしたの [音楽] です 家康引き合津抜軍には骨の元で育った福島 正典黒田長加藤義ダ波が参加しまし た一方政権を牛耳とする家康にマタを かけるべく徳川打当を掲げる勢力も 立ち上がり ますこちらも西田や浮田秀いえらオが育て

てきたゆかりの深い武将たちばかりでし たそこには骨が朝鮮への出陣を嫌がった 陽子小早川秀明も参加していまし た秀明の同行に大きな影響を与えたと見 られる所場がありますこちらが小早川秀明 に寝返りを要請する書状になります これはかてオの元で育った麻野吉永と黒田 長が連盟で送った所場で両者は北の満所の ために我々は東軍についているとオの名前 を全面に出して寝入りを進めてい ますこの所場からオは東軍の徳川方につい ていたと長面考えられてきました しかしオのま名前を出してまある意味では 出しに使ってえ小秀明を願いさせようた ようとしたお自身は何も自分は言やに見方 しますよとかねえひきしますよというそう いう表明は一切してないと思い ます軍が徳川の拠点城を攻めたの 西の対は武力衝突でと発展しまし たもはや天下分目の戦いは避けられない 状況の中和平を願うオの最後の工作が 始まり [音楽] ます軍は突如徳川にえ城に進行し軍で放し ますこの時場内には秀吉の即であった松の 丸殿と淀殿の妹ハが取り残されていまし た戦いを止め彼女たちを救うべくオは大城 に側近を派遣し ますいろんな時に女性も殺されてきたしま もちろんその武将も殺されたとでそういう ことが何回も何回も起るっていうのを私は 彼女は止めたかったという思うんですよね え女性たちをま戦乱から救いたいというね そういう思いで動いていることは確か でしょう ね死者となったオの側近は大津城側に会場 を納得させ松の丸殿と初の救出を果たし ます [音楽] しかし東西の和木に結びつけることはでき ずこの日関ヶ原ではとうとう全面衝突が 起こるの [音楽] です関ヶ原を舞台に骨が育てた武装たちは 東西マップタスに分かれて互いの命を 奪い合います これが北の万オの敗北の瞬間 ですこの戦いは豊が滅亡の道を歩む最大の 原因となり ますしかも骨にとっての悲劇は戦いの面を 握ったのが最愛の容姿小早川秀明だった こと です骨は戦いの結果を知り裸で五所に 駆け込んで涙にくれたと言い ます自分が育てたもの同士が争うっていう

のはやっぱちょっと面白くないしえ ちょっとま彼女にしてみればうん関原の戦 いっていうのは一体何だったのかなと思っ ちゃいますね [音楽] うんなんかこう自分のコントロールでき ないところで戦いが起きて自分が大事にし ていた子供たちが戦いあってっていううん なんかどんな気持ちで見つめていたのか なって想像もできないですねまさにそう ですよねやはりオにとってはですね自分の 身を切られるような辛さがあったんでは ないでしょうかねえでやはりトト県にとっ て不幸だったのはまあの実際このえなぜえ ま武断派と分地派と言われてるそのトト 家中の小貝の秀吉小貝のですねえ武将たち が対立したかというとえ朝鮮半島での対立 それが国内に持ち越されたわけなんですよ ねそれが原因になるわけですねえですから えオにとってはですねそこまで関与でき ないよともうそれだけ契約な関係になって え朝鮮から兵を引き上げてきてで国内で 対立してるっていう状況ですと途中でひ 消せないじゃないですか確かにもう帰国し たらみんな仲悪くなってましたみたいえ何 があったのみたいな感じですよねお願 ほんとそうだと思うんですよね秀吉が実際 に亡くなったの時期にですねえままだ朝鮮 半島に武将たちがいたんですよねで秀吉の 市が発表されたのは慶長4年1599年の 正月ですから非常にその間ですねえ いろんな政治的な動きも取れなかったで さらにそっからえまオはですねモニふさ なければいけなかったということで ちょうどその先ほど申し上げた武断派と 分地派の対立が激しくなる時期にですねえ 大人しくしてなければいけなかったという ことで非常にト県にとって夫が重なって しまったんですねそうですねだからね一概 にいやおさんもっとこうしとけばよかった のにっていうのはちょっとかわいそうかも しれないですねあのオが大阪城を出て京都 に移ったのは何か理由があったんでしょう かはいまおそらくですねこの時点ではオは えま政権としての豊臣決定見切っていたん ではないかなという思うんですよねえ元々 あの豊臣政権というのは何か明確な ビジョンがあって天下を取ったわけでは ないわけなんですよですから非常に不安定 な要素 えに持ってたわけですよねしかも初名を 集めてえ住職につけてるというな形です から初代名との利害も対立していくわけ ですよねおそらくオさんっていうのは早い うちからえトは長続きしないという風に

考えたんじゃないですかねもし伊藤さんが オだったら関ヶ原の戦いをこう阻止する ためにどう立ち回っていました かもしも自分が歴史の主人公だったら伊藤 ならこうし たま非常にですね難しいところなんです けどやれることって限られてきてるんです ねそうですええ関ヶ原の直前っていうのは 秀吉がなくなってから関ヶ原って本当丸2 年ぐらいしか経ってないんですよただそう は言っても非常に不穏な空気というのは 流れていたわけですからオの活躍する場も あったわけですねですから個々の大名を 呼んでですねえまあなんとかですねえ戦 っていうのが起こらないようにしろとかえ もし産が起こってもお前は情性を官房し てろとかえそういった形で初代もを怪獣さ せておくとそれ強く言っとくと秀吉の有言 だというぐらいですね強い調子で命令して おくということはできたと思うんでまそれ をやった形跡っていうのはあんまりないん でねもっと強い調子で言ったらどうだった のかなって気がしますよ ね手の届かないところでの組織の崩壊は フーンというしかありませんただ 最悪の結末を避けるための努力については まだまだやれることはあったのかもしれ ません [音楽] ね我が子のような家臣たちが共に殺し合い 傷つけあった関ヶ原を経て豊家は滅亡の 一途をたどっていきますオはその悲しき 結末をどのように受け止めたのでしょうか こちらをご覧 ください関ヶ原の戦いで豊はその力を 大きく削られ徳川の天下と呼べる情勢に なりまし た関原以号まおそらくオ自身はもうあまり 政治の表部隊に立つつもりはないわけです けれどもただま豊家がそのまま存続して 欲しいという思いはあるのでまそこで自分 がもし何か役に立つことがあるならばま そういった思いで動こうというそういう スタンスはあったとという風には思い ます豊富存続を願うオの切札となったのが 豊秀義と徳川秀太の娘千姫の結婚 ですこれはナ秀吉の遺言でありオにとって の最後の仕事でもありまし た1603年無事に礼を見届けたは出して 大院と名を改めますそして秀吉の母をう ために高代寺を混流しまし た寺には秀吉と過ごした城の表や室などを 移しその工事には骨を慕う加藤清や福島 正典の他徳川家康も協力しまし [音楽]

たただし家康の場合はただの親切では なかったよう です星美城でも大阪城でもいろんなことを やるのをイアス自体 があんまり好んでなかったと思うだから ねねさんがこれ欲しいって私運びますって いうことでま家康がここへ運び込んだのは 1つはできるだけ自分たちが使っておる ところは秀吉の匂いを消そうと思っ た 出家して秀吉の母体をとう日々を送ってい たオには1つだけさやかな願いがあったと 言い [音楽] ます私もねあのオ自身は豊富系が一大名と してのみから家が残ってくれればよしと 思ってたと思い ます代将軍秀が落した際はと徳川するよう な動きを見せ ますしかしジド殿は徳川への神獣を進める 骨の提案を拒絶しまし たまヨ殿としては1大名には転落させたく ないというねそういう強い思いが結局は あの大阪の人を呼び込んじゃったいう風に 思い ます1615年 徳川幕府の大軍が大阪城に殺しまし たこの時豊に味方する大名はもはや1つも ありませんでし [音楽] た大阪の陣勃発の際骨は急いで大阪に 向かおうとするも徳川軍に阻止されまし たその京で動きを封じられたままは滅亡の 知らせを受けまし た大阪のことは言葉もない豊滅亡を知った オは手紙にこう綴りまし た秀吉が手に入れた全てのものがまたに 失われていく様を骨は1人で見届けまし た 泣き夫の母銭でオは何を語りかけたの でしょう [音楽] かやぱそのオのま性格であったり人間性 みたいなところが本当にこうみんなの お母さんみたいなすごくこう愛情を感じ させる人なだけにこの結末はあまりにも こうおにとってなんか酷だなっていうの すごく感じますねいやあ酷ですよねと さやかな願い例えばえトヨミケをですねま あの天下の政権っていうのはもう担えな いっていうのは分かってたわけなんです からえま5万国程度のね光家としてえ残し てもらうということをえおそらくオま北の のところは望んでいたと思うんですけどね えそれさえもやはり許されず滅ぼされて

しまったオにとっても非常にえ残念だった と思うんですよねあの豊をこう存続させる ために何かおねにできることってなかった んでしょうかねうんここで歴史作家ならで はの視点で歴史の裏側を考察する伊藤順の 見解 ポイントここにはですねやはりオの神路 遠望というかオだけではなくて秀吉の進路 遠望もあったと思うんですよね大阪城西丸 にオはいたわけですけどそっからですねえ 京都のに移るんですその京都に移った ところはですねえ京都新庄って後に呼ば れる場所なんですけどま城でもないんです けどえま平に気づかれたそういう大きな 屋敷なったんですねそれははい5書に隣接 してるんですねあそこにえまずオが入る そしてオとしてはですねおそらくなんです けどそこにヒよりを迎え入れたかったんで ないかなと思うんですねあそれはなぜです かうんやはりトトの区化を図りたかったト がもしえ実力でですねえもう天下政権とし て継続できないとなったらえ存続だけでも 図ってくれとクとしてのトヨトミっていう のは1つの選択肢として秀吉は考えた可能 性が高いと思うんですよねああなるほどで おそらく普通の方考えたらそんなとこに白 ね平城作ったって攻撃されたらすぐ終わり じゃないと思うじゃないですかところが そうはいかないんですよなぜかと言えば もう5所にぴったり隣接してるんですそう なってくると当然え攻撃したら楽生になっ てくると火がつくじゃないですかで5所 まで焼いちゃうわけですよ五所を焼いて しまったらですね幕府としては面目 丸つぶれなんですねええ今度は江戸幕府が え天下政権として面目失ってしまうという ことでえまそこまでできないわけですねで そうやって交渉を続けていくうちに安の方 は年齢的にもかなり上ですから絶対不利 ですよね現にえ実際に事実でも東ミケが 滅んで1年以内にイさんは亡くなってる わけですよねはいですから京都新庄にえ ひよりを入れるっていうのは非常にいい策 だったと思うんですねそうですねおいそれ とそこね攻撃できない場所にひよりを移し ておくっていうそういうビジョンがあった わけですねええま実としては残っていない んですけどまあの色々考えていくとそう いったこともありえんのかなって気がし ますよねそうですねうんこの後は北の満所 オの敗北から学ぶ教訓 ですここで北の満所ことオの敗北から 私たちは何を学ぶべきなのか人生の教訓を まとめていただきますはいまずできること は限られていますけどやはりですねやら

ないよりはやった方がいいことっていうの はま少しあるんですねえそれがですね秀吉 の死後大名たちを集めて演説を行うことて いうのがすごく大事だと思うんですね北条 正子みたいな感じですかやはりここでの 結束を固めていくそしてえ戦乱のない 世の中っていうのはいかに大切かをですね 訴えかける演説を行うとそれによってです ね大名たち争うこと担を踏んだと思うん ですよねうんでまこういったのは現代社会 ま会社組織でも同じなんですけどえ常に 社長やトップとなる人はですねえビジョン や方向性を社員に語り続けるということが 大事なんですねそれによってえまここの 人間ですからねみんな少しずつビジョンと かえそういった考え方ってのはずれてき ますけどえその演説をいいタイミングで 行うことによってえベクトルを一致させて モチベーションを高めることができるん ですね2つ目はですね秀吉の藻が開けたら 自ら江戸に行くぐらいの覚悟を示すという こともできたと思うんですよねで自ら人質 のような立場で江戸に行きますということ で家康と秀たを逆に驚かせてしまうと 押しかけてくんのかっていうくらいにねし てしまうえそういう形で江戸に行ったら ですねえ家康と秀にとにかく会いたい会い たいて言い続けるああ人間大切なフェス タイムなんですよあることによって信頼を 勝ち得るないしは信頼関係をアップデート していくっていうのが人間関係ですからえ そういうことをですね行うことによってま しょうがねえなみたいな感じでね思って もらえるっていうこともあったと思うん ですよねですから自らの命を言やに託す ぐらいの覚悟を示すえそれによってまた 違った展開が見られたのかもしんないです よ ね逆境でも受けに回らずこぞの時には自分 で引っ張る覚悟を見せることそして 時には相手の懐に深く飛び込み心に直接 働きかけることも重要です ねこれぞ北の満所オの敗北から学ぶ教訓 ですまでもかなりそのオの状況って最後は 追い詰められていたと思うんですよねも他 に手立てがないみたいなところで何かこう 演説パンってこうできていたらなんか 変わった可能性っていうのはやっぱあるん はいまそういった演説っていうのは何かの 流れを変えるっていう大きな景気になるん ですよねでそのためにもやはり初代を集め てえ秀吉の恩義を思い出せと豊ミケを 盛り立てるためそしてえ天下を性質に導く ためにえみんなで頑張ろうというような 演説を行っていたらもしかしたら流れが

変わったかもしれないですよねああそれが ねできてたら家康あやられたって思った 可能性はありますよねありますねはい藤 さん今日はどうもありがとうございました 偉人敗北からの教訓それではまた次回お 会いし [音楽] ましょう

「豊臣家臣団分裂の悲劇!」家臣団の衝突を招いた豊臣秀吉の妻・北政所の敗北を紐解く。
大恋愛の末、秀吉と結ばれた北政所は有力な若者たちを集め、秀吉の家臣団形成を支えつつ、内政面でも力を発揮。秀吉が天下人に上り詰めると、夫と共に豊臣政権を率いる存在に。しかし、秀吉が亡くなると悲しい運命が待っていた!彼女が熱心に育てた家臣たちが対立し、関ヶ原の戦いで衝突!勢力を削がれた豊臣家は滅亡の道をひた走る。
北政所はなぜ家臣団の分裂を許してしまったのか?
(2024年2月10日放送の期間限定見逃し配信です。)

#BS11 #北政所 #淀殿 #茶々 #豊臣秀吉 #石田三成 #徳川家康 #関ヶ原の戦い #朝鮮出兵 #東軍 #西軍 #安土桃山時代 #室町時代 #平安時代 #江戸時代 #明治時代 #戦国時代 #歴史 #日本史 #偉人 #伊東潤 #中西悠理

【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)

【配信期間】
2024年2月10日~3月4日まで

📌BS11の「歴史」関連動画をチェック!

【番組情報】
全国無料放送BS11「偉人・敗北からの教訓」
📺毎週土曜日 よる8時00分~8時55分放送
番組公式HP:https://www.bs11.jp/entertainment/ijin-haiboku-kyoukun/

<番組詳細>
「敗北」「失敗」から、偉人の人物像に迫る!
毎回、偉人たちがおかした「歴史的な大失敗」から、その背景、要因、影響などを読み解き、
偉人の人物像を浮き彫りにするとともに、今を生きる私たちの教訓としていく新しい歴史バイオグラフィー。

【BS11+ 公式Instagram】
https://www.instagram.com/bs11plus

【BS11+ 公式X(旧Twitter)】

41 Comments

  1. 家臣団の対立が敗北じゃなくて、淀君を説得出来なかったのが敗北て内容に聞こえる内容でしたね

  2. 秀次事件や利休事件から朝鮮出兵などで暗躍する淀殿に近い近江閥の台頭で 豊臣は自分と秀吉が1代で築き1代で終わらせても良いと考えたのではないかな

  3. おねには、男を上手く甘えさせる優しさと、手玉にとるのではなく、上手く導き、再起させる賢さがある。中西アナもどうやら、その素質があるみたいですねー

  4. 失礼ながら、先生の分析された「おねはいち早く豊臣政権を見限った」について、納得できないです。共同創業者が自ら心血を注いで立ち上げた事業を放棄したというように聞こえましたので、そんなことありえますかって素朴に思ってしまいます。淀に実子である秀頼を通じ実質的に政権を掌握されたから、北政所にとっては面白くなく、勝手にやれって思うようになったであろう。

  5. 北政所は家康と結託して豊臣を見捨てた印象があったので、今回の番組を見て勉強になりました。

    北政所には北政所なりの葛藤があったのですね。

  6. 言いたいことはある程度に留めておくようにというアドバイスをする信長。
    信長自身ももちろんこれを実践していたはず。
    旧来の過激な信長像は崩れていますね。

  7. 胸に込み上げるものがある番組でした。
    お市の方や淀殿は悲劇的に描かれがちですが、実はおねさんも悲しい晩年を過ごしていたんですね。

  8. 今回の教訓は、選択肢がすくなくなって追い詰められた時でも、最後まで打開策を考え続けるのが重要たと思いました。
    上記の能力は、コミュニケーション能力と同じで、とっさにできるわけでないので、常に意識して、上記の能力を日常生活で、鍛錬していくことが大切だと感じました。
    北政所を中心に関ヶ原の戦いを考える企画は、私にとっては新鮮味がありました。

  9. 子供がいないという事を活かして、家柄を問わず育て上げてきた反面、最後は子供がいないという事が仇となり、分裂し、滅亡してしまった。もし、おねの嫡子が豊臣家の後継になっていたなら、歴史は変わっていたのかもしれない

  10. 夫と一緒に築き上げた豊臣政権が滅亡するのを見届けてたことに衝撃を受けたのを覚えています。
    本当にどんな気持ちだったんだろう

  11. 伊東先生の奥様は先見の明がありますね笑
    中西さんが何と答えようか戸惑っているところが微笑ましいです。

  12. 私はやっぱり ねねと呼んでしまいますが ねね自信に一万石所領があったとは驚きました 他の大名の妻でもそういったことはあったのでしょうか
    子供ができなかった事が有能な家臣団を産んだのは確かなことなんでしょうね。

  13. 人を見る目があるなら 家康のことを見くびっていないと思うから豊臣家を残すために徳川への臣従やむ無しと考えてたかもしれないからなんとか生き残る道を模索してたと思いたいですね

  14. 8:50~の伊東先生が自虐ネタぶち込んだ後のキューちゃんの困った表情がなんとも…(^^♪笑
    キューちゃんの敗北はココだったね~(^_-)-☆
    ココのポイントを『伊東潤ならこうした!』で解説してもらいたいなぁ~(#^^#)笑

  15. そもそも秀吉は天下を取るべきではなかった、あくまでも織田家の家臣としての立場に徹した方がよかったと思いますね、実際秀吉も天下を取ってからおかしくなったし💧

  16. 足軽と結婚したら関白になっちゃったんだもんな。優秀な妻で天下や豊臣家を案じながら生きた生涯ってみんな思ってるけどさ。

    別段優秀でもなんでもないただのそこらへんの普通の女性で、結構、あれよあれよと、なにが起こってるのやら、わけわかんないまま無我夢中で生きて、気が付いたら晩年で死んじゃったって可能性ないのかね?「嘘でしょ?噓でしょ?」ってパニくって、固まっちゃってただけなのが、「中立を保った」とか「落ち着いていた」とかいう評価になってるだけなんじゃないの?どうなんだろうねえ・・・。

  17. 私の北政所のイメージは、大〇ドラマで出来上がっておりました。
    以降、顧みることもないまま、旅行で高台寺へ赴き、秀吉公とねね様の像など
    楽しく見学して参りました。
    そもそも、「おね様」というのが正しい(らしい)ということすら知りませんでしたから
    今回の番組は、いつもに増して「へ~」の連発でした。
    自国の歴史の研究が進み、かつての定説が見直され、修正されていることを知る機会を
    くださいまして、ありがとうございます。
    これからも楽しみにしています。

  18. 子供がいなかったゆえに、平等さが生まれ家臣団を作ることができ、天下統一を成し遂げることができた、ただ子供がいなかったゆえに、その可愛さ余って子供に固執するもなくそして子供たちによる争いごともなかったが、そののちの天下を続けることが出来なかった。世の中は昔から難しいものですね。

  19. 手紙や日記などの信憑性のある資料だと北政所と西軍関係者との親密さが目立ちますのでそういった目線での大河ドラマも見てみたいです😊

  20. まぁ北政所がどうこうできるレベル超えてたよな。秀吉の家臣団のときならまだしも、一国一城の主の武将になってるとね。

  21. 寧々にとって一番最良な方法取ったと思う
    あまり腕っぷしで物言わせるなら政子みたいになるしかないよ
    自分が秀吉ならあの世で、寧々にも茶々にも「よくやったな、よし」て言います

  22. 実在の北政所と淀殿とは全く違うのかなあとは思いますけど、
    個人的には、大河ドラマの独眼竜政宗の八千草薫さんの北政所と、樋口可南子さんの淀君が1番好きです

  23. おねが男の子を産んでいたら
    関ヶ原の戦いも起こらず豊臣政権
    も続いていたかもしれない

  24. サムネイル見てねねVS淀の関ヶ原を期待して見ましたが、
    全然そんな内容じゃないですよね?

    腐ってもTV局の公式チャンネルがサムネ詐欺みたいな
    みっともない事しているのが残念です。

    特に内容が面白かったから真っ直ぐ勝負して欲しかった。

  25. 秀吉が朝鮮出兵を2回もしなげれば家臣団分裂もせず、豊臣家滅亡もなかった。おねさんも悲しい生涯を送らずにすんだと思う。

  26. 秀吉はおねさんなしには天下はとれなかったと思う。
    信長も褒めるくらいだから、以前からできる女性だったんだろうなと思っていたけど、早くから、政治にも携わっていたんですね。
    なかなかできないですよ!

  27. 豊臣家は関白家ですね、将軍家ではない。結局淀殿がそれを理解できなかったか秀頼がそれを実践する器量がなかった。

  28. 小早川秀秋を戦場に出すのを嫌がったというのは資料があるのでしょうか??
    当時の武将の家で戦働きを厭う意識があるとは思われないのですが…

  29. 最後の伊藤先生の分析、演説と敵の懐に飛び込む、はサラリーマンで苦労された先生らしいもので、とても良かったです。感動しました。
    しかし、自害した淀殿と出家して長生きした北政所のどちらが幸せだったかと思うと、北政所だったように、私は思います。

  30. 結果的に北政所の実家は江戸時代大名として残ったから(分家忠臣蔵になっとるが)本人としてはよかったような気がする

  31. 豊臣家臣が分裂し、結果、豊臣家が滅亡してしまったのは北政所の敗北ではなく、淀が側室の分際で秀頼の生母という立場を利用し、織田から天下を奪った豊臣から、織田と浅井の血を引く秀頼を天下人にすることで、再び、織田に天下を奪い返そうとしたことにあるんだと思う。北政所は豊臣家の滅亡を願ってはいなかったと思うが、徳川家康でなければ天下がまた乱れるということが分っており、豊臣が徳川に下ることはやむを得ないと思っていたのではないだろうか? だが息子を天下人にしたいと願う淀はそれを良しとはしなかった。結果、豊臣家は滅亡してしまうことになるが、北政所の適切な判断が無ければ、関ヶ原の戦い以降も戦国時代が続いていた可能性が高く、それは民が苦しむことであり、彼女は元天下人の正室として、適切な判断を下したということではないだろうか?

  32. ポルトガル人宣教師 ルイス・フロイス曰く、「関白殿下の奥さんはキリシタンではなかったが、大変な人格者で彼女に頼めば解決しないことは無かった。」と記してますね。

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