Search for:
乃木坂46

第1271回「鎌倉新仏教の祖師たち」2024/6/30【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師



第1271回「鎌倉新仏教の祖師たち」2024/6/30【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

[音楽] [音楽] おはようございます日本の仏教師で最も 仏教が勢い良かったのが鎌倉時代であり ましょう岩波書店の仏教時点には鎌倉仏教 として日本の仏教師の中で鎌倉時代の仏教 を特別視するのは近代以降のことで ある特に全や上土系の諸種日連集などこの 時代に単を発する諸種やその組子の活動を 鎌倉新仏教と呼んで日本の仏教師の中でも 特別優れたものとして評価することは戦前 から戦後にかけて長い間常識しされてきた そのとして民衆中心であること実践方法の 単純化宗教哲学的な進化政治権力に対して 宗教の自立性を主張したことなどが挙げ られまし たそれに対してなんと北連の仏教や信言 密教などは旧仏教とされ新仏教の活動を 阻害したり敵対したりする勢力とみなされ たと分かりやすく解説されています民衆 中心であること実践方法の単純化宗教哲学 的な進化政治権力に対して宗教の自立性を 主張したということは実にその通りであり ます単純化したけれども進化していると いうところが特徴でもあり ますそれは本年証人診断証人衛前時同元 前地日連証人そして一変証人の6人であり ます本年商人は1133年に生まれ 1212年にお亡くなりになっています 上土州のカ所であります本年商人は見さ 岡山県の生まれですウ時国の子でした9歳 の時に父は夜討に会いましたが由会により 仇打ちを断念しました13歳で平山に登り 15歳の時に出家しました 18歳の時斎藤の黒谷に陰生した次元棒英 空を訪ねて弟子となり本年坊元と名を改め ましたそれからというもの実に25年もの 間英空について修行みました43歳の時 黒谷の共同で全道長韓無良樹教書3義の 一新千年未明の文により願を開ましそこで 千住年物に帰依したのでしたまもなく映山 を下り東山吉水大谷においてあらゆる階層 の人々に上土年物の教えを解いたのでした その本年証人を尋ねたのが信男証人でした 信男証人は1173年のお生まれですから 本年商人よりは40歳も若いのです 1262年にお亡くなりにていますので 90歳と長名でした上土新州の回そであり ます9歳で出家し平山に登りました平山で は常業残米道の同祖を務めていたと言われ ていますしかしそこでの20年の修行は 悩みを解決してくれず29歳で六角道に参 し承徳大使の次元を得て吉水に年承認を 尋ねました 自力増強捨ててた本願に得心したのでした 本年証人から先着本願念仏集を授かります その頃診断と解明したようです1207年 念仏弾圧で原速して越後新潟県に流された のでしたそれからは非想卑属を貫き愚と称 しました1211年に斜面されさらに家族 と共に日に移住しまし た京都に帰るまでの約20年間関東各地で 不況したのでした623歳の頃ようやく 京都に帰りましたお2人が経験されたのが 上弦の法難でした1207年五葉条項に よって本年証人及び診断証人らがルザとさ れた事件です本年証人は土佐の国万だ信 証人は越の国国府へ配慮されたのでした この時本年証人も診断証人も漱石を剥奪さ れましたそんな苦難があったのでした お二方は念仏の死を広められた方でした前 も鎌倉時代に起こりましたなんと言っても 塞善治と同元前時であります塞前時は臨在 衆を同元前時は相当集を伝えたのでした エサ前時は1141年にお生まれで 1215年にお亡くなりになっています 日本における臨在集の祖でありますそして 鎌倉幕府の帰依を受けた最初の前走でも あります同号は妙案幼女房先行方士とも 呼ばれます備中鬼神社の写しかしの出です 算で密を学びますが28歳で5ヶ月の間 そしてさらに47歳で5年の間なんと2度 にわって層に入って学びました天台産に 巡礼し気安江上より臨在州横領派の全と会 を受けて帰国したのでした貴重後京太で競 別伝の前を解く日本だま州の大二農民と共 に比山の弾圧を受けて不興の停止を 言い渡されてしまいます しかし公然護国論を上信して仏法の相府 諸教の極意としての前週の立場を弁明し まし た鎌倉幕府の帰依で鎌倉に自腹児を立て さらに今日の宮に県人事を改装しました当 大事再建の大幹人となるなど広く日本仏教 の中高に務めた方であります同元善治は 1200年の生まれで253年にお 亡くなりになっています日本相当集のカ所 です同元前里は8歳で母をなくしています 13歳の時平山に登り翌年ザス公園につい て特しました後ミデ御寺に行員を尋ねその 進めで県人寺に入って学びます塞電磁が 亡くなりになった後は塞善治の皇帝明善 前時に指示しました 1223年明全前時と共に日bilしまし た女女前時に参じて1225年二条前時の 新人脱落の語を聞いて得度したことで知ら れています叔父に交渉事を開いたのですが その頃比山から弾圧を受けていますそして エ駅伝に永平寺を開いているのです日連 証人は1222年のお生まれで1282年 にお亡くなりになっています日連の海です 安の国小湊に両のことして生まれました 12歳の時清澄寺に預けられ16歳で出家 しましたその後鎌倉遊学を経てついで比山 に学びましたこの間に天台驚愕のみならず 密教上土教など広く学んでいますそして補 教中心の信仰を確立するに至りました 32歳の時故郷に帰りましたこの時清澄寺 で南明法連撃を整えたとされています本年 の上土年物に批判を加えたことが元で故郷 を追われ鎌倉に来て不興を開始しました 北家進行の確率を訴えて立証暗黒論を39 歳の時に表しています日連証人は分営8年 辰口の法難の直後さへ計にせられいます 最後は一変証人です一変商人は1239年 のお生まれで1289年にお亡くなりに なっています自習の阻です伊の出身で初め 天台を学び後に打府で上空の弟子小達に ついて上土年物を習いましたシは本年証人 の門家です33歳の時シナノの全工事にを 出て2が百道の図を移して故郷に帰って3 年間それを本尊として念仏に励めました 36歳の時四天王寺荒野さんを経て熊野に 散乱し熊野本宮の神からご信託を得ます 南仏欠場王城60万人と書いた念仏札を 配り負して全国を力有業したのでした 大きく分けると年証人乱人一辺証人の念仏 の教えと日連証人の大目の教えと塞善治島 同元前時の前の教えの3つになります それぞれ旧仏教から厳しい弾圧などに耐え ながら多くの民衆に仏法を広められたの でした苦しい時代にその人たちと共に苦労 しながら仏教を新たに復興させた組たちで あり [音楽] ますそれでは姿勢と呼吸と整えてまいり ますまず両方の足で床顔をしっかりと 踏みしめてこの第1に支えられていること を感じて足に力を入れてよし立ち上がるぞ という気持ちでお尻を5cmないし 10cmほどすっと持ち上げていって ストン下ろし ます息を吸いながら肩をぎっと持ち上げて いって吐と同時にストンとおろし ますもう1度息を吸いながら肩をぎっと 持ち上げていって吐と同時にストンと 下ろし ます最初1息息を強く吐き出しますこの時 にはお腹のそこに溜まっている空気も全部 吐き出してしまうつもりで胸に抱えている 思いや煩いも全部吐き出してしまうつもり で口を開いて一息強く [音楽] はと吐き出して口を閉じますと花から新鮮 な空気がいっぱい入ってまりますおへその 下下腹いっぱいに新しい空気が満ちて さらに体の隅々まで新しい空気が雪はって いくのを感じながらああありがたいな 嬉しいなとこの思わず微笑みがこぼれて まいり ますそんな気持ちでその後は口を閉じて ただ鼻から息が出たり入ったりする様子を 静かに見つめて座りましょう あ はいありがとうございますどうぞ今日も 良い1日でありますようにお祈りしており ます

【サムネイル写真を募集しております】※概要欄下部をご覧ください。
 
■管長日記「鎌倉新仏教の祖師たち」
https://www.engakuji.or.jp/blog/37821/
 
■Voicy
https://r.voicy.jp/G4VWzGxo9eM
 
■note
https://note.com/engakuji/n/n63b26c65088f
 
 
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
————————————————-
日本の仏教史で、最も仏教が勢いよかったのが鎌倉時代でありましょう。

岩波書店の『仏教辞典』には、「鎌倉仏教」として、

「日本の仏教史の中で鎌倉時代の仏教を特別視するのは近代以降のことである。

特に、禅や浄土系の諸宗、日蓮宗など、この時代に端を発する諸宗や、その祖師の活動を<鎌倉新仏教>と呼んで、日本の仏教史の中でも特別優れたものとして評価することは、戦前から戦後にかけて長い間常識視されてきた。

その特徴として、民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対して宗教の自立性を主張したことなどが挙げられた。

それに対して、南都北嶺(なんとほくれい)の仏教や真言密教などは旧仏教とされ、新仏教の活動を阻害したり敵対したりする勢力と見なされた。」

と分かりやすく解説されています。

「民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対して宗教の自立性を主張した」ということは実にその通りであります。

単純化したけれども深化しているというところが特徴でもあります。

それは、法然上人、親鸞聖人、栄西禅師、道元禅師、日蓮聖人、そして一遍上人の六人であります。

法然上人は一一三三年に生まれ一二一二年にお亡くなりになっています。

浄土宗の開祖であります。

法然上人は、美作(岡山県)の生まれです。

漆間(うるま)時国の子でした。

九歳のとき父は夜討に遭いましたが、遺誡により仇討を断念しました。

十三歳で比叡山に登り、十五歳のときに出家しました。

十八歳のとき、西塔の黒谷に隠棲していた慈眼房叡空をたずねて弟子となり、法然坊源空と名を改めました。

それからというもの実に二五年もの間叡空について修行を積みました。

四十三歳のとき、黒谷の経蔵で善導著『観無量寿経疏』散善義の「一心専念弥陀名号」の文により心眼を開きました。

そこで、専修念仏に帰依したのでした。

まもなく叡山を下り、東山吉水(大谷)においてあらゆる階層の人々に浄土念仏の教えを説いたのでした。

その法然上人を訪ねたのが親鸞聖人でした。

親鸞聖人は、一一七三年のお生れですから、法然上人よりは、四〇歳もお若いのです。

一二六二年にお亡くなりになっていますので、九十歳と長命でした。

浄土真宗の開祖であります。

九歳で出家し比叡山にのぼりました。

比叡山では常行三昧堂の堂僧を勤めていたといわれています。

しかしそこでの二十年間の修行は悩みを解決してくれず、二十九歳(1201)で、六角堂に参籠し、聖徳太子の示現を得て吉水に法然上人をたずねました。

自力雑行(ぞうぎょう)を棄てて他力本願に回心したのでした。

法然上人から『選択(せんちゃく)本願念仏集』を授かります。

そのころ、親鸞と改名したようです。

一二〇七年、念仏弾圧で還俗(げんぞく)して越後(新潟県)に流されたのでした。

それからは非僧非俗を貫き、愚禿と称しました。

一二一一年(建暦1)赦免され、更に家族とともに常陸(茨城県)に移住しました。

京都に帰るまで約二〇年間、関東各地で布教したのでした。

六二,三歳のころ、ようやく京都に帰りました。

お二人が経験されたのが、「承元の法難(じょうげんのほうなん)」でした。

一二〇七年(建永二年、承元元年)後鳥羽上皇によって法然上人及び親鸞聖人らが流罪とされた事件です。

法然上人は、土佐国番田(現、高知県)へ、親鸞聖人は越後国国府(現、新潟県)へ配流されたのでした。 

この時、法然上人も親鸞聖人も僧籍を剥奪されました。

そんな苦難があったのでした。

お二方は念仏の教えを弘められた方でした。

禅も鎌倉時代に興りました。

なんといっても栄西禅師と道元禅師であります。

栄西禅師は臨済宗を、道元禅師は曹洞宗を伝えたのでした。

栄西禅師は一一四一年にお生れで一二一五年にお亡くなりになっています。

日本に於ける臨済宗の祖であります。

そして鎌倉幕府の帰依を受けた最初の禅僧でもあります。

道号は明庵、葉上房、千光法師ともよばれます。

備中(岡山県)吉備津神社の社司賀陽氏の出でです。

比叡山で台密を学びますが、二八歳で五カ月の間、そして更に四七歳で五年の間、なんと二度にわたって宋に入って学びました。

天台山に巡礼し、虚庵懐敞(きあんえしょう)より臨済宗黄竜派の禅と戒を受けて帰国したのでした。

帰朝後、京都で教外別伝の禅を説く日本達磨宗の大日能忍とともに比叡山の弾圧をうけて布教の停止を言い渡されてしまいます。

しかし『興禅護国論』を上進して仏法の総府、諸教の極意としての禅宗の立場を弁明しました。

鎌倉幕府の帰依で、鎌倉に寿福寺を建て、更に京の都に建仁寺を開創しました。

東大寺再建の大勧進となるなど、広く日本仏教の中興につとめた方であります。

道元禅師は一二〇〇年のお生れで一二五三年にお亡くなりになっています。

日本曹洞宗の開祖です。

道元禅師は八歳で母を亡くしています。

一三歳のとき比叡山にのぼり、翌年座主公円について得度しました。

のち三井寺(園城寺(おんじょうじ))に公胤をたずね、そのすすめで建仁寺に入って学びます。

栄西禅師がお亡くなりになった後は、栄西禅師の高弟明全禅師に師事しました。

一二二三年明全禅師とともに入宋しました。

如浄禅師に参じて一二二五年、如浄禅師の「身心脱落」の語を聞いて得悟したことで知られています。

宇治に興聖寺を開いていたのですが、その頃比叡山から弾圧を受けています。

そして越前に永平寺を開いているのです。

日蓮聖人は一二二二年のお生れで一二八二年にお亡くなりになっています。

日蓮宗の開祖です。

安房国(千葉県安房郡)小湊に漁夫の子として生れました。

一二歳のとき清澄寺(きよすみでら)にあずけられ、一六歳で出家しました。

その後、鎌倉遊学を経て、ついで比叡山に学びました。

この間に天台教学のみならず、密教・浄土教など広く学んでいます。

そして法華経中心の信仰を確立するに至りました。

三十二歳のとき故郷に帰りました。

このとき清澄寺で<南無妙法蓮華経>と唱えたとされています。

法然の浄土念仏に批判を加えたことがもとで故郷を追われ、鎌倉に来て布教を開始しました。

法華信仰の確立を訴えて、『立正安国論』を三十九歳の時に著しています。

日蓮聖人は文永八年竜の口の法難の直後、佐渡へ流刑に処せられています。

最後は一遍上人です。

一遍上人は一二三九年のお生れで一二八九年にお亡くなりになっています。

時宗の祖師です。

伊予(愛媛県)の出身で、はじめ天台を学び、のちに太宰府で証空の弟子の聖達(しょうたつ)について浄土念仏を習いました。

証空は法然上人の門下です。

三十三歳のとき、信濃の善光寺に詣でて二河白道(にがびゃくどう)の図を写し、故郷に帰って三年間、それを本尊として念仏に励みました。

三十六歳のとき、四天王寺・高野山を経て熊野に参籠し、熊野本宮の神からご神託を得ます。

「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」と書いた念仏札を配り、賦算して全国を巡歴遊行したのでした。

大きく分けると法然上人、親鸞聖人、一遍上人の念仏の教えと、日蓮聖人の題目の教えと、栄西禅師と道元禅師の禅の教えの三つになります。

それぞれ旧仏教からの厳しい弾圧などに耐えながら、多くの民衆に仏法を弘められたのでした。

苦しい時代に、その人たちと共に苦労しながら、仏教を新たに復興させた祖師達であります。
 
 
横田南嶺
————————————————-
  
  
【サムネイル写真の募集】毎日の管長日記と呼吸瞑想
————————————————-
この度「毎日の管長日記と呼吸瞑想ラジオ」につきまして、皆さまからのサムネイル写真を募集いたします。
いただいた写真を「毎日の管長日記と呼吸瞑想ラジオ」のサムネイルとして使用させていただきます。

■撮影対象場所
臨済宗大本山 円覚寺山内

■応募内容
・山内のお勧めスポット
・季節や時間帯で変わる円覚寺の風景
など、皆さまのお気に入りの写真をお送りください。
また、お一人さま何枚でもお送りいただけます。

■撮影について
カメラは横向きで撮影お願いいたします。

■応募方法
下記のメールアドレスに必須情報をご記入の上、写真データをお送りください。
※ファイルサイズは25MB以下とします。

【応募必須情報】
・お名前
・フォトネーム (写真を使用させていただいた場合、YouTube概要欄に記載するお名前です。)
・撮影した場所
・撮影日 (不明な場合は記載なしで構いません。)

【応募メールアドレス】
engakuji.yt@gmail.com

■応募条件
応募者がすべての著作権を有している写真に限ります。
応募者ご自身が円覚寺山内で撮影した写真であれば問題ございません。
ただし、被写体に人物が含まれている場合は、事前に承諾を得るなど、肖像権の侵害等が生じないようご確認ください。

■著作権及び著作者人格権の取扱いについて
お送りいただいた写真データについては、応募の送付をもって、著作権を円覚寺に譲渡いただきます。また、写真データの利用にあたっては、応募の送付をもって、応募者様が著作者人格権(YouTube、SNS、Webコンテンツ、印刷物等に円覚寺が写真を利用する際の氏名表示の可否及び写真の翻案、改変、加工、その他の形式で利用する場合の同一性保持の可否等)を行使されないことに承諾いただいたものとします。
————————————————-
 

 
#管長日記, #呼吸瞑想, #毎日更新

Write A Comment