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【新説】秀頼・淀殿は砲撃前に戦意喪失|完全解説 大坂の陣【どうする家康】



【新説】秀頼・淀殿は砲撃前に戦意喪失|完全解説 大坂の陣【どうする家康】

前回に引き続き、大坂の陣に関する最新研究の成果を紹介します。
今回は前回解説できなかった豊臣家の開戦に至るまでの流れと合戦の詳細の解説です!

※本動画は「どうする家康」のネタバレを一部含みます。

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0:00​ オープニング
0:54 豊臣家の内部対立
4:22 大坂冬の陣
7:03 真田丸の戦いと講和
10:26 大坂夏の陣
14:24 参考文献のご案内

についてお話しています!
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笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ日本評伝選)
徳川家康没後400年を記念して刊行された伝記です。後世の軍記物等によらず、同時代の史料から等身大の家康を描いています。
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堀新・井上泰至『家康徹底解読』(文学通信)
家康の研究者による家康の最新研究が14の項目からまとめられています。家康は今川家だけでなく、織田家の人質でもなかったなど驚きの新説もありました。やや難解ですが、家康研究の最前線を知りたい方はぜひ!
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黒田基樹『羽柴家滅亡』(平凡社)
茶々と片桐且元の書状から羽柴家の滅亡に至る経緯を詳細に分析しています。後世、創作された茶々像とは異なる等身大の茶々の姿を垣間見ることができます。
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■今回の時代のキーワード
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33 Comments

  1. 結局、大阪城内のチームワークがなっていなかったと言えましょう。ただでさえ大名が誰一人味方しなかった状況のうえこれでは敗れたのも止む無しではないでしょうか。燃え行く大阪城を目の当たりにした且元の胸にいかなる思いが去来したのでしょうか。

  2. 未だに気になるのが、家康は秀頼へ執拗に大和郡山への国替を進め、結局秀頼は最後まで国替を呑むことはなかった訳だが

    大和郡山城て大坂城に比べたら小さいけど、
    秀頼の叔父豊臣秀長が築いた名城で、
    豊臣政権でも南都を抑える重要な城とされていたことから、かなり高待遇なんですけどねえ…

    少なくとも先祖代々の地から関東に飛ばされた家康に比べたら

  3. 大名が誰一人味方せず、牢人衆も統制出来ず、徳川をよく知る片桐且元をも追放してしまってはねぇ。

  4. 力・金のあるところには人が集まる。自分の欲得の為にその力・金を利用するつもりで来る連中も居る。それは 豊臣(羽柴)方も徳川方も同じ。そういう連中を上手く利用できるかどうかの問題。徳川方はそれが出来て、豊臣方は出来なかった。

  5. 籠城戦については、楠木正成の成功例が、小田原の北条勢や大阪の豊臣(羽柴)勢を惑わした、とか…
    あれ(正成)は、特別だった。

  6. 大阪城より防備も薄かっただろうに、同じ地に建ってた本願寺が信長相手に10年も粘ってたのがどれだけ凄まじいんだ一向宗…

  7. お疲れ様です。
    大阪方は、家臣、牢人達の統率が出来なかったのが致命的だったんですね。
    ドラマでは、正信とのシーン、年寄り二人の地獄への道行話しがなんとも言えないしみじみとしたいい場面でした。守綱もいたぁー!戦場でのほっこりとした場面でしたね。大砲を大阪城天守へ打ち込む場面、秀忠が泣いて家康を止めようとするシーンは、長篠の戦いでの信康と家康を思い出しました。これが戦じゃ。と言う家康の覚悟に涙が出ました😭
    豊臣と徳川の板挟みになり、終始涙目の千姫が、次回の予告でキッパリと徳川を攻めると言った心の動き、どう描くのか楽しみです。

  8. 今からでも遅くないから秀頼は茶々を人質として送った方がいいと思うよ

  9. 以前、加来耕三著『徳川家康の勉強法』という本を読んだとき、「片桐且元と会っていたのと同じ頃、家康は大坂からやって来た大蔵卿局という人物と会った時、豊臣家中を2つに割るチャンスだと考え、応対した家臣に且元と大蔵卿局との扱いに差を設けたことによって、豊臣家は且元と大蔵卿局のどちらかを疑ったことが分裂のきっかけになると考えた。」ということが書かれていたので、今川家や織田家、武田家など、多くの大名と関係にあった徳川家とさほど他大名と関わりのなかった豊臣家(秀頼と茶々)の差が、この大坂の陣の結果をもたらしたのかなと思いました。

  10. 徳川との協調路線の片桐且元とその他の秀頼側近らの確執が、豊臣家の行く末を誤らせましたね。且元は大野治長を高くかっていたそうなのに、その彼と対立してしまったのは残念です。何とか彼と連携して淀殿を説得していれば、豊臣家は一家臣としてではあっても生き残れたでしょう。二人で説得しても、淀殿を納得させられなかったかもしれませんが、あのような滅亡は避けられたはずです。且元の不在が、大阪方にとってはいたかったと感じます。9:45の牢人問題を解決するための条件を出していたにもかかわらず、豊臣方がそれを拒否し、再び夏の陣になった経緯は初見だったので、納得しました。徳川はいろいろ手を尽くしいるのですね!

  11. 淀殿を江戸に送れば歴史が変わったかも。母親が離れて大義(武家としての豊臣の存続)を失えば家臣団を統率できなくなった秀頼は、講和に応じとりあえず大坂夏の陣は終了し、秀頼出家して歴史の表舞台などに立たずに穏やかな一生を送ったかもしれない。そもそも父親の秀吉が農民出身だったのだから、家柄に縛られていたのは淀殿だけのはず。

  12. じっとしていれば徳川方は長陣に嫌気がさして寝返りする者もあったのではと思います。昔の大砲などでは大坂城は落ちることはなかったでしょう。秀吉が自分の知恵のあまり、サザエの殻は硬いから調略を入れて中から腐らせれば口が開くと大名達に語ったらしいが、それを忠実に実行したのが家康だったような気がします。女が口出しした戦の典型でしょう。

  13. 豊臣や豊臣に味方した大名は豊臣の為に戦っていたけど、召し抱えた浪人は死に場所を求めていただけ

  14. この大河だと「余は豊臣秀頼なのじゃ」とあるように、最後まで豊臣の血筋に囚われ続けたんだろなあ。

    古い大河の「独眼竜政宗」だと
    「亡き天下様(秀吉)にあれほどの側女がおりながら何故母だけが子を成したのか…もしここで余が徳川に膝を屈してみよ。やはり秀頼は太閤が実子にあらずと世間は我が母を謗ろうぞ。なればこそ城を枕に討死せば、流石は豊家の跡取りよと末代まで語り継がれん(超うろ覚え)」てな感じで、自分が秀吉の子ではない疑惑を晴らそうとして戦う道を選んだ…て感じだった

  15. こんにちわ!大阪
    冬の陣千姫が徳川と豊臣に挟まれて気の毒で見てられなかった!ドラマでは織田忠雄が出てましたが!この人はどっちつかずで豊臣方?なんですか?なんでいたのかよくわからない

  16. 冬の陣の前ならともかく、夏の陣の前に強硬策を主張していた豊臣家の家臣はどんな勝算があったのだろうか?
    浪人なら「最後のひと花」と思い戦を望むのは分かるが、豊臣家の家臣なら改易されても付いて行けるはずなのに。
    武門の意地だったり、空気を読んで強硬派の意見に引っ張られたのかもしれないが、彼らを押えられなかった時点で、秀頼の器量が見て取れると思う。

  17. 第三者的に見れば、片桐且元は豊臣家にとどめ、茶々を人質として送れば良かった。茶々が人質では家康は最も困るだろうが、自分でそう言ったのだから仕方が無い。茶々を豊臣家に招いたのは秀吉。そうなれば、秀吉は天下を取ったが、豊臣家滅亡のきっかけを作ったのも秀吉だ。秀頼は天下の情勢を客観的に見て、家康の臣下になる道を選ぶべきだった。信長の子供である信雄もそうやって生き残り、廃藩置県まで血筋が残ったのだから。

  18. 失敗する時はやはり読み間違いに原因があると思う。
    国内は既に江戸幕府が設立されており、全国の大名は幕府の統治下にあった。
    だから、今更豊臣が徳川に代わって仕切り直すなんてありえなかった。
    また、万一豊臣が徳川を武力討伐できたのなら、豊臣政権が復権…もあったかもだが、浪人ばかりでまとまりがなく、統率する者もいない。真田が単独で一矢報いるのが精一杯という様相。
    これではどうにもならない。

    北政所は淀殿に豊臣を乗っ取られた。秀頼も秀吉の血は引いていない…だからもう豊臣が存続しても意味がないと考えたと思う。家康に北政所が協力的なわけだから、豊臣方は勝てるはずがない。

  19. 歴史あるあるですが、この時秀頼茶々が苦渋の決断して助けを求め豊臣の家を生かしていたらどうなったのか等気になりますね。ただ茶々も戦略的な考えに至らず、秀頼としても歴戦の戦いをしてきた牢人達をコントロールする天才的な「すべ」を秀吉に伝授されていなかったのが大きかったかもしれませんね

  20. 大坂夏の陣が終わった翌年家康と正信は亡くなる。その16年後には秀忠が鬼籍に入る。千姫に至っては大坂の陣後51年生きて四代家綱の時代まで生きる。

  21. 政権が移る時に豊臣は織田を残し、明治政府は徳川を残した…一方で豊臣は滅ぼされた(滅ぼしたくはなかったけど滅ぼさざるを得なかった)
    その程度の血筋だった、と

  22. なんとまぁ、秀頼家臣団内部の角逐が原因とは😅しかも秀頼・茶々の母子密着が豊臣側の選択の幅を狭めてしまったのかもしれませんね・・・まるで豊臣は滅びの美学に酔ってしまった様にしか見えない悲劇性。結局は勝てる見込みのない戦ながら、豊臣にも一部に善戦が見られて物語を盛り上げる要素には事欠かない構図が・・・さらば豊臣!ですね・・・

  23. 大河ドラマはその時代の世相を反映した演出がされるものですが、今回は世代交代がテーマのようです。「理想の世代交代」と「悪しき世代交代」が徳川方と豊臣方の内情になぞらえて演出されました。

  24. 戦国武将は、生き長らえるために戦ったのではない、から見ていくと分かる。後の世では、生き長らえる手段などいくらでも考えられる。

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