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新説邪馬台国論争に終止符!!邪馬台国はここだ!!(総集編・作業睡眠用)



新説邪馬台国論争に終止符!!邪馬台国はここだ!!(総集編・作業睡眠用)

おはこんばちは今回は総集編になります 一体何の総集編なの山大国所在地について 私なりにまとめた説をピックアップしてる んだぜこのチャンネルでもいくつかの説を 唱えているもんね睡眠用動画やBGMとし て今回の動画を利用してくれたら嬉しいん だぜなるほどね最近急速にチャンネル登録 者様も増えてきているからどういった説を 動画として投稿しているかなども是非見て いただきたいんだぜということで皆さん ゆっくりしていってねこんにちはゆっくり 霊夢ですこんにちはゆっくり魔理沙だぜ ゴールデンウィークに突入したわねそうだ などこか行く予定でもあるの人が少ない 田舎でのんびり過ごしたいぜいいわね のんびりバーベキューとかもいいかもしれ ないわね今回はどんな動画なの今回は ついにあの内容の動画をあげるぜ一体何の 動画をあげるつもり山大国についてだぜ ついにあの山大国について考察するのね魔 理沙は山大国はどこだと思うの色々と考察 した結果山大国の場所は分からなかったぜ えじゃあ今回の動画はどうするの山大国が どこかっていうのを1つには絞れなかった けど山大国じゃないかなと考察できた場所 が何か所かピックアップできたので ピックアップした場所を説明していこうと 思うぜなるほどね分かったわ魔理沙は義 神殿の記述についてどう思うの南に水行 20日で東馬国さらに南に山太国がある 水行と借こ1ヶ月かかると書いてある記事 から信憑性がかけているなと思うぜここの 文章から機内説と九州説などいろんな説に 分れ今日に至るまで論争されているもんね 単純に義姉は神殿の記述通りに行くと インドネシアやパプアニューギニアが とても怪しくなるんだぜつまり山大国は インドネシアかパプアニューギニアだぜ痛 すぎるでしょなわけねえよ分かってるわよ 一体何が言いたいのよ山大国論争をする人 たちはみんな義姉は人伝のその記述に とらわれすぎている気がするぜ明らかに そこの記述はおかしいんだから何日かかる かという部分の記述は省いてもいいと思う ぜなんなら今回は義姉は神殿の記述を軸に せず日本の文献を主軸として山大国がどこ なのか考察しようと思うぜ少し別の視野 から考察するってわけね魔理沙は機内説と 吸収説どちらが正しいと思っているの両方 あり得そうな説でどちらか選べって言われ たら難しいぜとりあえずピックアップした 場所を見て欲しいんだぜ分かったわまずは 九州説だぜこの黄色のチェックした場所が 九州の山大国候補かしそうだぜ1番北の チェックポイントは宇佐神宮周辺真ん中は

三山市周辺1番下は氷河市周辺だぜなぜ その3箇所が山大国だと思ったの根拠を1 つずつ説明していくぜ分かったわこの地図 を見てくれこれは私が予想する古代の九州 の勢力図だぜ詳しくは前回の出雲について 考察を見て欲しいんだぜ私はこの赤線で 囲んだエリアが当時のヤの支配権だと思う んだぜそういえば前回そんなこと言ってい たわねもしとひこが関係あるなら九州の3 箇所の候補の中の宇神宮周辺と氷菓周辺が 怪しくなるんだぜ赤線の範囲ないだもんね ここでこれも見て欲しいんだぜこれは任務 天皇の統制の経路だぜ氷菓周辺佐神宮周辺 にも立ち寄ったのね私はこの任務統制が 任務天皇一台で行ったのかというと怪しく 感じるんだぜつまり宮が変わっているのは 天皇が変わり戦としたんじゃないかと推測 するぜ1台でこんなに戦とするなんて確か に現実かもしれないわね日本の様々な文献 を見ると宇佐神宮では古代ではご信託を 受ける場所としてすごく特別しされた場所 なのが分かるんだぜ同居の事件などもある もんねなぜう神宮が重要視され始めたかと 考えるとひこがいたから特別しされたん じゃないのかなと考察するぜひこは シャーマン的な要素があると義姉は神殿で も記述されているもんね任務天皇以降の 天皇がう神宮に戦としその時に卑がい たってわけねそうだな勢力の初期は天皇が 変わる度に都が変わっているんだぜひこが 大和と関係がある人物ならこの時の大和の 都が宇神宮周辺というのが正しいかもしれ ないぜまたうから少し来たのトバ地区遺跡 軍で大感合集落が発見されたり古代に 大きな国があったのは間違いなさそうだぜ なるほど面白いわね宇佐神宮が山大国候補 の理由は分かったわヒガ周辺が山大国の 候補の理由は何なの任務統制が1台で行っ た出来事の場合や岡田には一時的にいた だけであり義姉は神殿に記述されている ような山大国のような大きな国を作ってい たとは思えないぜ他の九州の部分は一時的 に戦としただけだもんねひかって地名は ひこって人物の名前が国の名前になったか もしれないなとも思うんだぜひこにひか 確かに音が似ているわねまたこの地は古代 よりアマテラス大御神をまっている大江 神社や天の岩となど天テラス大御神に ゆかりがある場所が多いんだぜ魔理沙は別 動画でひことアマテラス大御神は同一人物 って言っていたもんねまたひがしは日勝 時間も全国でトップクラスなんだぜほほ第 12代傾向天皇がこの国に来た際従者に この国は日の出の法時に向いていると言っ たなど太陽に関する逸話が色々あるんだぜ

太陽の神の聖地にはぴったりな場所ね最後 に三山市周辺をなんで山大国候補だと考え ているか教えてちょうだい宮市周辺には かつて大和と呼ばれていた地名があったん だぜそうなのね山太国がヤタと読むのでは なく大和と呼び大和王建と関係のない勢力 ならこの大和が怪しいと思うんだぜ なるほどねただ日本各地に大和や大和と いう場所はいくつかあり珍しい地名では ないわよ他にも何か根拠でもあるの日本 初期によれば日子の時代から100年後の 神宮工合の時代田姫という大和と敵対して いた巫女の女王がいたとされているんだぜ ひことなんとなくキャラがかぶっているわ ね義姉は神殿では日子が泣き跡男が大いに ついたが争いが起きとという女子を大にし たら争いが収まったとされているぜこの田 姫はひこやとの一族の子孫かもしれないん だぜそのまま女王を王にしてた一族かも しれないわねこの田姫の伝承などもあるの で三山周辺を山大国候補としたんだぜ言わ れてみればありえない話でもないように 感じるわ ねここんにちはゆっくり霊夢です こんにちはゆっくり魔理沙です本格的に 熱くなってたわね本当だなそういえば以前 九州の山大国の所在地候補をピックアップ した動画をあげたわよねそれがどうしたん だぜ近畿説の動画もいつか投稿するって 言ってなかったぎくりぎくりじゃないわよ もしかして九州説の人たちにロパされるの が怖くて投稿しなかったんじゃない でしょうねぎくりそんなわけないだろ霊夢 今ぎくりって言ったじゃんもちろん今回山 大国所在近畿節編を投稿するつもりだぜ 本当に本当だぜ近畿節の根拠が魔理沙の中 でなかったら無理をしなくていいのよそれ はあるんだぜじゃあとっとと説明して ちょうだい分かったぜ前回山大国の吸収説 の候補ピックアップしたのでもし よろしければそちらもご覧ください動画の URLは概要欄に貼ってありますそれ じゃあ説明を始めるぜ分かったわこれを見 て欲しいんだぜ何かしら近畿の山大国後報 参加所ピックアップしたぜほほ1番上が 伊勢遺跡その下が巻向遺跡巻向遺跡の右側 が伊勢神宮変だぜほうほうなぜこの3箇所 だと思ったの今から順番に説明していくぜ 分かったわ山大国の所在地考察に入る前に 霊夢に質問するんだが何かしらひこって誰 だと思うひこはひこでしょどういうこと かしらひこは義姉は神殿などの当時の中国 の文献に登場するんだが乞食や日本初期と いった日本の歴史書には全く登場しないん だぜはいはいだから日本では別の名前で

呼ばれていたんじゃないかと推測できるん だぜなるほどねあなたは誰だと思うのまず は前回の動画でも紹介した大和とも姫の命 だぜ桃太郎と一緒に映っているわね桃太郎 のモデルの鬼彦の姉だとされているんだぜ そうなのねもそ姫については前回の動画で 語っているのでよかったらそちらも視聴し てください概要欄にURLを貼っています もう1人はアマテラスみかだぜアマテラス 御神と言ったら神様じゃないそうだな1人 というより一柱だななんでそう思うの日本 初期や乞食で記載されているアマテラスの 逸話に国譲り神話があるんだぜその国譲り 神話の内容がとても人間らしく政治職が 強い話なんだぜなるほどこのいわからひこ は後の世でアマテラスと同一しされた巫女 もしくは同一人物じゃないのかと推測する んだぜなるほどね今説明したひこが誰なの かというのを踏まえた上で山大国所在地を 考察していくんだぜ分かったわまずはもし ひこが大ととひも姫の見だった場合巻向 遺跡が山大国候補だと思うんだぜそれは なぜかしらも姫は巻向遺跡の近くの実は山 の神である大物主の神と結婚していたとさ れておりまたも姫が活躍していた崇人天皇 の時代は巻向遺跡近くの奈良県桜石かで 政治を行っていたとされているぜなるほど ねまた巻向遺跡は大型建物の後が見つかっ たり祭祀遺跡やたくさんの時が湿度したり とやい時代後期から古墳時代にかけて とても大きな集落だったことが分かるんだ ぜこれらの理由からもも姫がひこなら巻向 遺跡周辺が山大国だと思うんだぜ確かに 集落の遺跡とかもあるなら信憑性があるわ ね次にひこがアマテラスの場合の山大国 所在地について説明するぜ分かったわまず は伊勢神宮周辺だぜ伊勢神宮はアマテラス 大御神が祀られている神社よねそうだぜ もしかしてそれが理由そうだぜ元々日子の 宮があった場所がそのまま伊勢神宮という 聖地として現代までもも残ったんじゃない だろうかと推測するぜ伊勢神宮周辺に大 規模な遺跡とかあるの大規模な遺跡はない んだが伊勢神宮の近くの三重県伊勢市大和 町では隠れが化遺跡という住居跡遺跡が 見つかっており3世紀末にこの付近に人が 住んでいたことが分かっているんだぜ根拠 としては少し弱い気もするわねもしひこが アマテラス御神なら山大国は大と関係が ある国かもしくは大和国そのものの可能性 があるんだぜ大和国と山大国言葉の音も なんとなく似て気がするわね隠れがか遺跡 がある場所は伊勢大和町なんだぜなるほど もし大和イコールやたなら大和イコー山体 もあり得るって言いたいのねそうだぜ伊勢

神宮周辺はかつて山太国だったから今も その名残りでヤ町という地名が残っている のではないかと推測するんだぜただ大規模 集落の遺跡が発見されていないからこの説 はパンチがない気がするわね今後の発掘 調査に期待するぜ最後は1番北の異性席 周辺だぜどうしてここを山大国候補にあげ たのかしら異性石はやい時代後期の大型 建物軍が発見されていたり広大な水田の跡 が発見されたりととても大きな集落があっ たことが分かるんだぜはいはい大きな規模 だから山大国の候補だって言いたいのね そうだぜ伊勢席周辺はも姫やアマテラス 大御神は関係ないのもし関係があるとし たらアマテラス大御神だと思うぜその根拠 はまずは地名だな地名伊勢遺跡は滋賀県 森山市伊勢町にあるんだぜ伊勢町にある 遺跡だから伊勢遺跡なのねアマテラス 大御神が祀られている三重県の伊勢神宮も 伊勢なんだぜ同じ名前の地名ね私はひこは 異性席周辺で政治を行っておりひこの死後 弥子を祀る土地を探していた際今の伊勢 神宮周辺に卑を祀ることになり生前卑が 政治を行っていた伊という地名を今の伊勢 神宮周辺にもつけたのではないかと推測 するんだぜなるほど伊勢神宮周辺の伊勢と いう地名は伊勢遺跡周辺の伊勢という地名 から来ているということねそうだぜこれが 山大国機内説の私なりの考察だぜ山大国が どこかって1箇所に絞り込むことって 難しいもんねちなみに義神殿では山大国の 南にク国という山大国と敵対している国が あると記述されていたんだがもし山大国が 近畿なら三重県の熊野市が国国だったと 思うぜなんでそう思うのまずは国国と熊野 の音が似ているのが1つもう1つは任務 天皇が任務統制の際熊のので大くの神を 倒した逸話があるんだぜほほ熊の後はク国 で大くの神はク国の王だったのではないか と考察するんだぜもしかしたら現実にあっ た戦いの話が時代を重ねるにつれて神話と なったのかもしれないわね今回は以上だぜ 以前投稿した山大国吸収説も閲覧して いただきながら今回の近畿説を比較し皆 さんに色々考えて欲しいんだぜ吸収説の URLは概要欄に貼ってあります よろしければチャンネル登録グッドボタン とコメントをお願いしますそれではご視聴 ありがとうございましたおはこんばちは 最近暑くなったわね本当だなそろそろ アイスが食べたくなってくるんだぜ扇風機 とエアコンもつけたくなってくるわねそう いえばこのチャンネル古代師についてよく 取り上げているけどあの話題の自説動画 ってないわよねあの話題山太国論争よない

な後補地をピックアップした動画ならある けどそろそろ自説を投稿したらどうかしら 1箇所に絞れとそうよ分かったぜ今回は現 時点でう主が山告ってここじゃなかったの かって考察を説明していくぜよく待って ました早速行くぜほいほいここからは義姉 は神殿の内容からも話していくのでもし義 は神殿を読んだことがない人は是非前回の 現代5役の動画を閲覧して欲しいんだぜ ちゃっかりと自分の動画の宣伝をするん じゃないわよテヘペロ義は神殿には山大国 に到着するまでいくつかの国が出てくるん だけど霊夢は知っているか前回の動画で魔 理沙が説明していたわよね確か津島国一大 国末路国伊国国文国東馬国よねその通りだ ぜ私は津島国は今の長崎県津島市一大国は 長崎県行末路国は長崎県松浦市から唐津市 の間だと思うぜここには名遺跡がありこの 付近が松露国のメインだったのではないか と考察するぜ伊国は福岡県糸島市付近七国 は古代で名と呼ばれていた福岡県福岡市春 市付近不国は福岡県福岡市春郡海町ここ までは私も定説通りだと思うぜよく一般に 言われている説よねここから先の説明に 入る前にこいつを見てくれこれは古代の 日本のチリを推測した地図だぜこいつを どう思うすごく大きいです海の面積が一体 どこで見つけたの国土チリンの開発地図を 参考にしたんだぜ実際に会っているの 分からないぜなんじゃそらただこうやって 眺めてみると例えば吉野遺跡が海の近くに あったり山内丸山遺跡が海の近くにあっ たりなどなぜこんな田舎で遺跡が見つかっ たのだろうと思っていた場所も解決するん だぜ近くに海があったから食料が確保でき たり海を通じていろんな場所と交流ができ 発展したってことなのね要するに利便性に 優れていた場所だったというわけねそう いうことだぜこの開発地図を見ればなぜ 義姉は神殿で海町の記述があったのかも 納得できるんだぜ海町の近くまで海だった のね加工付近ということは川の面積も今 よりも広く多くの船が生きしていたのかも しれないわね今よりも加工が近く川の面積 が太かったなら外国との交流の玄関口で ある打布がなぜこの場所にできたのかも 納得できるんだぜ北と南両方から放にして きた外国の人を相手にできたからってわけ ね義姉は神殿は不国の次に記述されている 遠馬国の記述から多くの意見が分れている んだぜ確かこれまでの国は東南に百里進む と南国に着くや東へ百里行くと富国に着く など具体的な方位と距離が書かれていたの よねけどこの東馬国は南に水行発かって 道のりが書いてあって今までの書き方とは

異なっているのよねそうなんだぜと馬国の 次に山大国が記述されており山大国までの 道のりも水行とか陸行1ヶ月といった感じ に今までの道なりの書き方とは違い ざっくりとした書き方なんだぜ書き方の 違いに一体どう言った意味があるのかしら その辺も考察していきたいんだぜちなみに この後の文章は山大国の支配下の国々が 順番に書いてあるんだけど遠いためどこか 分からないという風に書いてありその南に 山大国と敵対しているク国があるという 情報があるんだぜ一体どこなのか検討が つかないわよく言われている定説とかって ないの九州説ならと生国は海町から川を 使い水行とかかけて福岡県や市筑後市 広川町三山市大川市周辺とされているぜ なぜここなのかしらここは昔高妻軍下妻軍 三軍という地域だったんだぜと馬国が遠 まって読み方ではなくつまって呼び方で あったならここではなかったのではないか という説があるんだぜつこだったのね魔 理沙ははどう思うの下妻と三妻はこの開発 地図を見る限り海の底だからありえないん だけど高妻軍は当時も陸にあった可能性が 高くやしでは遺跡や古墳がたくさん湿度し ておりとうこであった可能性はあると思う ぜ古代の異物が湿度されていたらあり得る かもしれないわねただ個人的にはここは遠 うこではなかったのだと思うぜ一体どこだ と思うの後で解説するので次に行くぜ 分かったわ山大国はどこだったって説が あるの水行とか陸行1ヶ月和の記述は水行 ともしくは陸行1ヶ月ではなかったのでは ないかという考え方であり福岡県柳川市 三山市付近ではないのかといった説がある んだぜその心はかつてこのエリアは大和軍 という名前であったため山太国がヤタと 読むのではなく大和と呼ばれていたので あればここのエリアが山太国であったので はないかと言われているんだぜ大和に山 確かに音は似ているし外国の人なら聞き 間違えてもおかしくないわね魔理沙はどう 思うの山大国イコール山と王建という説は 私もその通りだと思うんだぜどうして かしらひこの死後新たに女性の王が山大国 に現れたと義姉は神殿で記録されているん だけどその王の名前が諸説あるんだがとと いう名前の女性なんだぜほうほうととと 呼べるのなら山大国は大和と呼ぶことも できるんじゃないか言われてみたらそうよ ねということは山大国は大和軍だったって ことでいいのかしらしかし山大国が大和軍 にあったというこの説は間違っていると 思うんだぜどっちなのよこの開発地図を 見る限り大半が海の底なんだぜ本当ね海の

底に人が住むのは難しいんだぜじゃあ魔 理沙的にはこの説はなしってことねそう いうことだぜじゃあ山大国は一体どこなの かしら義神殿には山大国の南に敵対してい た国船国があったと記述されておりそこの 感覚こち引くという人物なんだぜはいはい この国はおそらく熊本付近だと推測できる んだぜそれはなぜかしら熊本はかつて熊 祖国というヤ権と敵対していた国があった と日本の歴史書でも記録されているんだぜ 義姉は神殿に書いてある山太国とク国の 関係に似ているわね私は同じ国だったと 思っているんだぜク国の間の地引は菊彦 だったと私は思うんだぜ菊彦熊本県には菊 市という街がありかつてこの土地で力を 持っていた豪族だったのではないかと思う んだぜなるほどそれで菊彦なのね音も確か に似ているわねもしこの仮説が正しければ 山大国は熊本県菊市よりも北に存在してい た可能性が高いぜそろそろ魔理沙の考えを 聞きたいわね義姉は神殿に書いてあると馬 から山大国の術って他の国の記載と異なっ ているだろさっきも言っていたけど道のり と法が他の国に比べてざっくりしているわ よねこれにどういう意味があるのかしら この2つの記述は私は後から付け足した 記述だと思うんだぜどういうことかしら私 はひこの時代と世の時代で山大国の位置 って違うと思っているんだぜ言っている 意味が分からないわつまりどういうことな のか簡単に説明してほしいわ戦したんだと 私は思っているぜそういうことなのね何か 根拠でもあるのかしらとある書物に戦とし た記述が書いてあるんだぜ一体何に書いて あったのかしら日本食と直だぜそんなこと が書いてあれば今頃山大国論争なんて解決 しているんじゃないかしら直接的には書い てないんだがそれを匂わせるような出来事 が記録されていたんだぜ一体何かしら事務 統制だぜ事務統制一体どんな出来事なの かしら日本の初代天皇任務天皇は元々は 宮崎県あたりに住んでいたとされているん だぜつまりその時代の人は宮崎だったわけ ねある日任務天皇は日本を納めるにはどこ の土地に住むのがいいだろうかと考えこの 画像のルートで今の奈良県貸しに移動した とされるんだぜすごく大移動したのね私は 日子の時代は奈良に戦とするより前の時代 との時代は奈良に戦とした後の時代だと私 は推測するぜほほう義神殿では山大国の 距離について大砲軍から女王国まで 1万2000里と記述されているんだがと 馬国の前に記述してある富国で 1万7000里なんだぜつまり残り300 理で山大国に到着しなければいけないと

いうことねということは吸州説が濃厚と いうことになるのかしらしかし義姉は神殿 の記述では水行20日で遠馬国さらに水行 10日陸行1ヶ月で山大国と記述されて いるんだぜ300理では済まない気がする わね一体どちらが正しいのかしら両方 正しいと思うんだぜどういうことか分かり やすく教えて欲しいわね大砲軍から 1万2000里の記述は戦と前の日子政権 時の山大国の位置であり当馬から遂行等か 陸行1ヶ月の記述は戦闘後の山大国の位置 の記録ではないかと私は考えているんだぜ だから距離数が矛盾しているのねじゃあ先 と前と戦と後の山大国の場所を教えて 欲しいわね分かったぜ戦と後山大国の考察 をしていくぜ義の死者は実際には戦と後の 山大国には言っておらずこの記述は和人 から聞いた道乗りの可能性が高いんだぜ どうしてそう思うのかしら古代中国の歴史 書の随所は国典には当時の和人は理数を 知らず日数で計算しているとの記述がある んだぜ当馬国と山大国の記述は日数で数え ていてその記述と同じね義の人間が実際 行ったなら理数で記載するはずなんだぜ 確かにそうよねそれを踏まえて東馬国と山 大国はどこになるのかしら東馬国は島根県 出雲市周辺だと思うぜその根拠は何なの かしらまず島根県出雲市は公人打に遺跡を 始め多くの遺跡や古墳道徳や同権なども他 とは比べ物にならないくらい大量に出土さ れておりまた乞食などの日本の歴史書でも 出雲についての記述はとても多くかられて おり力を持った勢力がいたことは間違い ないんだぜ現代でも出雲代謝など大きい 神社もたくさんあるものね義姉は神殿の 技術で遠馬国は5万件家があったとされて おりこれは義姉は神殿に登場する国の中で も山大国の次に多いんだぜ出雲も遠馬国も 大きい国であったという共通点があるのね また遠馬の読み方がツモであったとしたら 出雲と音も似ているんだぜなるほどねけど 南に20日という記述はどう説明するの かしら地理的にも海町の南ではないと思う わよ霊夢は義の死者がどこで和人から山 大国と遠馬国の道のりを聞いたと思ううん 分からないわ義の死者は山大国が戦闘した ことを後から知ったためこれまでの山大国 の記述を訂正して新しくここの記述を後 から付け足したら実際に山大国と当馬国に 行っておらず和人に場所を聞いたのだとし たら和人と擬人が生きする中国文化の窓口 である大砲軍だと思うんだぜ義姉は神殿で も和人も擬人も大砲軍を経由しているわね つまり魔理沙の仮説ではこの山大国も馬国 も後から訂正され付け加えられた記述だ

から前後の分はつがっておらずと馬国は 大砲軍からの道のりだって言いたいのね そうだと思うぜ独特な面白い説ねじゃあ 戦後山大国は一体どこになるのかしら奈良 県桜石付近だと思うぜ確かここには古代の 大集落後の巻向遺石や多くの古墳やひこの 墓かもしれないと言われている橋墓古墳が 近くにあるわよねそうなんだぜ遺跡の規模 などからも妥当だと私は思うぜ出雲も桜も 規模的には問題ないわねじゃあどういった ルートで出雲から奈に行ったのかしら東馬 国から山大国までのルートは出雲街道を 通り瀬戸内会まで進出しそこから大阪経由 で奈良に入っていたのではないかと私は 思うぜ出雲街道といえば古代から大和と 出雲をつぐ道のりよね魔理沙の仮説が 正しいなら可能性が高いルートよね無難だ と思うぜこの開発地図を見る限り昔は大阪 のほとんどが海だったのねすごいわね任務 統制の際任務天皇はこの大阪の海に訪れて 波が激しい波はの渡りというエリアを通っ たという記述があるんだぜそこが今の難波 だとされているぜとても面白い話ね今の 難波が海のど真ん中だったなんて想像でき ないわねこの魔理沙の説はとても面白い けど出雲街道の最終地点の姫路市から奈良 県まで海で行くのに等価もかかるのかしら なんなら陸行1ヶ月もかかりすぎじゃない かしら古代人はこの出雲街道をずっと歩い て進んでいたわけではないと推測するぜと いうと古代の川は今よりも整備がされて おらずもっと広かっただぜインフラ整備 技術も今よりも高くないものねこの出雲 街道もおそらく船に乗って川で進むエリア と歩いていくエリアに分れていたと思うぜ 張間布では出雲の多国に主の神が船で今の 姫路の街中にある八条元山という山に訪れ て息子を捨てて逃亡するといった エピソードもあるんだぜえげつないお話ね 注目するところはそこではなくて船で来て いるところなんだぜ本当ね今の価値観なら 出雲から姫路までの経路は道路を使って いくイメージがあるけど大国に主はは船で 訪れているのねつまり陸行と水行というの は川や海を使った日数と歩いた日数の合計 なんだぜなるほどね日本のいろんな場所で ここはかつて川だったって場所もたくさん あるもんね現代のチリと一緒に考えない方 がいいわねじゃあ魔理沙の考察が正しいと いう前提で話を進めるけど本来書いてあっ た山大国と遠馬国の所在地ってどこなの かしら東馬国は本来書いてなかったんだと 私は思うぜどういうことかしらと馬国が 出雲国なら出雲の地にこらからあった国で 戦としていないんだぜ出雲は古来から独自

の王国があった可能性が高いとされている もんね和国タラ以前の出雲はおそらく山 大国と敵対していたのではないかとなん なら和国タイラは山大国連合と出雲国連合 の戦いだったのではないかと私は推測して いるぜなぜそうだと思うの実は和国タラと 思わし記述が日本の歴史書に書いてあるん だぜ一体何かしら国譲り神話だぜ確か元々 日本に住んでいた多国に主の神の一族が天 に住んでいるアマテラスをの一族に日本を 譲るというお話よねそうだぜただの神話 じゃないの私は実際にあった話この和国 大乱がモデルだったのだと思うぜこれは 九州を納めていた山大国が多国に主が納め ていた本州を勢力化に納めた出来事が時間 が流れ神話となったのだと思うぜなるほど ねひこの時代は出雲国とまだ微妙な関係と の時代は完全に勢力化だったため後から 追加で付け加えられたのね私はそう思うぜ 山大国はじゃあどこだったの統制の経路を 見てほしいんだぜこれがどうしたのこの 任務統制って高宮から柏原までとても大 規模の移動なんだぜそうね私はこの移動は 任務統制1台で移動したものではなくて台 を重ねて徐々に移動していったのではない かと私は思うんだぜつまり任務天皇1人の 功績ではないと言いたいわけねそうだぜ 一体誰の功績だと言いたいの任務天皇から 始まり決し8台の天皇たちそこから崇人 天皇までの実績だと思うぜ決し8台といえ ば2台天皇から9代の8人の天皇よね何を したのか業績が全く記録されていないこと から実在しなかったのではないかと言われ ている天皇たちよねなぜ業績が残ってい なかったかと言うとこの任務統制の記録が とても古く誰が何をしたのか記録に残って おらずこの統制の記録を任務天皇1人の 功績としてまとめたのではないかと考察 するぜ乞食や日本初期が変換されたのは第 40代天部天皇の時代だから何百年も後の 話だもんね今で言えば江戸時代の出来事を 記録するようなものだから当時からでも昔 の出来事だったのねそうだぜ日本初期や 乞食によると古代の天皇は台が変わると戦 として都子を映した人物が多いんだぜ今と 価値観が違うわねこの統制で任務天皇が 滞在している宮は歴代の天皇が戦として いった都ではないのかと私は思うぜ1台で 統制したのではなく歴代天皇の鉱石なの ならありえない話でもないわねじゃあひこ の時代はどこにいたのかしらこれは なかなか難しいんだぜ義姉は神殿では大砲 軍から山大国までの距離は1万2000里 とされており富国で残り山大国まで300 理なんだぜということはこの統制の経路を

見る限り九州が濃厚ねその中でも高千穂宮 は遠いので消去法で岡宮か宮ということに なるわね魔理沙はどっちだと思うのここ から1つに絞るのはとても難しいんだけど どっちかというと宇周辺だったのではない かと思うぜ地図で言うならこの辺全体が山 大国だったのではないかとなぜそう思うの かしら義神殿では和国タラで当時の国々は 争っていたみたいな記述が書かれていたん だがこの乱世だった日本を納めることが できたのは良い環境に山大国があったから だと思うんだぜいい環境この当時もや人を 運ぶのに1番いいルートってどこだったと 思う山などが少なく整備された道かしら いい戦行っているぜうんわからないわ答え は回路だぜなるほどね海なら船でスムーズ に人やものを多く運搬できるわねこの エリアにもし山大国があれば朝鮮半島や 中国大陸の国々から輸入したものを いち早く取り入れることができるし逆に 瀬戸内会を通じて日本全国から輸入輸出が できるんだぜエリア的に良い環境だった わけね当時の日本の陸地は草で美していて 整備されていなかったことが義姉は神殿に 記述されており回路がとても合理的だった ことが分かるぜ出雲勢力は日本海側で力を 持っていたが南の方は山大国の勢力が抑え ていたため山大国勢力に敗北したのでは ないかと推測するぜ回路を制するものは 和国を制すスラムダクっぽく言うなよてへ けどその説が正しいとするなら岡宮でも 問題なさそうね大陸にも近いし瀬戸内会に もすぐに行けるしその通りなんだぜだから 1つに絞るのが難しいんだぜじゃあなぜ宇 宮を山大国だとしたのかしらこの土地に ある宇神宮では全国の八幡宮の相本者で ありここの神社での占いやご信託が古代で は重要視されていたことが分かっているん だぜ同居事件でもここの神社のご信託が とても重要視されていたもんね卑も軌道を 使っていたという記述があることから シャーマン的な要素が強かったことが 分かるぜつまりひこのシャーマン的要素 から岡宮よりこの地の可能性の方が高いと いうことねそういうことだぜなかなか 面白い説だったわ山大国の場所について あなたの自説は分かったけどひこが誰なの かはまだ聞いていないわ一体誰だったのだ と思うのアマテラス大御神だと私は思うぜ まあ国譲り神話を出した時からそう言うと 思っていたわじゃあとは誰なのかしら豊姫 と豊入姫の命だったと思うぜ2人いたって こと豊姫は神様の名前で豊入姫は崇人天皇 の時代に活躍した巫女だぜどういうこと かしら豊入姫は崇人天皇の時代アマテラス

大御神を祭り不安定だった国内を安定させ たと日本初期には記録されているぜ義姉は 神殿にも卑の死後再び国内が乱れたと書い てあるわね私はこの鉱石から死後豊受姫と して神格化されたと思うんだぜだから 伊勢神宮では内宮にアマテラスをみか下宮 にトけが祀られてるって言いたいのねそう いうことだぜ魔理沙がひこや山大国につい てどういった妄想をしているのかは分かっ たわじゃあ最後の質問なんだけど山大国は なぜ奈良に戦としたのかしらこれはさっき も言ったのだが事務統制前に任務天皇が 日本を納めるにはどこの土地で収めるのが 良いだろうと考えたってエピソードがあっ たよなはいはいならは当時の日本を納める のにベストな土地なんだぜどうしてかしら 当時の日本はこの開発地図を見て分かる 通りほとんど海と山開発地図では分から ないんだが今よりも川も多く安定した時 って少なかったんだと思うぜ奈良は盆地で 比較的住みやすく大阪から瀬戸内会の回路 を利用できたり奈良は山に囲まれている ため敵に攻められにくく東西南北日本の いろんな場所と攻撃ができたりメリットは たくさんあったと思うんだぜそれに本州の 出が勢力化になったことで本州の真ん中で 政治を行う方が都合が良かったんだと思う ぜなるほどね奈良が国を納めるのには一番 最適だと思ったから戦としたのね逆に任務 天皇のこの考えは一地方の王の発想では なく和国大乱が終わり国々がある程度統一 された後に思い浮かぶ発想だと思うぜもし 一地方の王なら自分の国を守ることや勢力 化を増やすことでいっぱいいっぱいなはず よねおそらく本格戦とは第10代崇人天皇 の時代どうしてそう思うのかしら日本初期 や乞食といった歴史書でも崇人天皇から いろんな出来事が記録されているし崇人 天皇の時代は疫病で国民の多がなくなると いった出来事が起こったりしているんだぜ ほうほうまた指導将軍を日本の各地に派遣 して自分たちに従わないせ力を討伐して いるんだぜひこの後は男の王が立ったが国 は再び戦争状態になったという義姉は神殿 の記述に似ている気がするわねこの疫病と いうのも大陸との交流が活発だった免疫を 持っている山大国の人間が機内入りした ことで免疫を持っていない人が多かった ならの人たちがたくさんなくなったって 可能性もあり得るんだぜそういう考えも できるわねしかも崇人天皇はこの原因を 日本で古くから祀られていた大物主の神を 祭っていなかったからだと考えたみたいで 自分たの都の近くの宮山に大物主の神を まつったってエピソードがあるんだぜ

ほうほうこの話ってよく考えると崇人天皇 は外から来た勢力だったっていう風にも 見れるんだぜどうしてかしらこれってなら に戦として自分たちの髪を祭っていたが 疫病でたくさんの人がなくなってこれは 古来から進行されていた神が怒っているん だと感じたから三山に本来祀られていた神 を祭り直したって話にも見えるんだぜ日本 の神様ってアマテラスの一族の点から来た 天上と古来から日本に住んでいた国つの神 の2種類に分けることができるもんねもし ここで疫病は国つの神様を祀らなかった から起きたという発想にならなければこの 時点で国つみの進行は淘汰されていて現代 の神社や浸透の神はもっと少なかったかも しれないんだぜそういう妄想も面白いわね ということで今回の動画は以上だぜ視聴者 の皆様のいろんな説や考えがあると思うの でそれをコメント欄に書いていただけると 嬉しいですチャンネル登録と高評価も よろしくお願いしますそれではご視聴 ありがとうございました

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今回は邪馬台国の所在地考察動画総集編です。

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何故日本全国に神社が建てられたのか!?

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卑弥呼は一体誰なのか?邪馬台国の女王「卑弥呼」について考察・解説

#ゆっくり解説 #邪馬台国 #卑弥呼 #九州説 #魏志倭人伝 #古代史 #大和 #畿内説

4 Comments

  1. 出雲説いいですね。ヤマタノオロチはヤマタイに語感が似てるし、出雲大社の巨大な注連縄は縄文の蛇神信仰の名残りと言われるし。
    近畿に朝廷が成立後も高層神殿など出雲独自の宗教体制が容認されていたのは神武東征の手法に何か負い目があってその祟りを恐れたのかも。

  2. 九州説近畿説は新説でもなんでもない。YouTuberならもっと面白いこと言おうよ。大学とかからお金をもらっていないのだから。
    もっと自由に考えよう。
    そもそも時代の違う記紀をいくら見ても邪馬台国は分からない。それはもう江戸時代から検証し続けてある程度結果が出ている。
    どういう訳かほとんどの人が西日本しか見ていない。それは現代日本がある意味ヤマト政権の延長なのだからか。
    例えば北九州が邪馬台国だとした場合、三韓の一つ分しか勢力範囲しかない。大月氏国に比類しない。四国も同じ。四国が皇統の一派なのは疑わない。

    常陸国が邪馬台国。そして、日高見国であり、伊勢より古く鹿島香取神宮がある。狗奴国は千葉県。阿波忌部氏が数多くの前方後円墳を作った。
    女王国は出雲から越、東北地方の日本海ルートに住んでいた東テイ人たちを含む東日本。
    東テイ人は海洋民族で、出雲が耕作面積が少ないのに王国を作っていたのは漁業と海洋貿易で栄えていたから。
    魏の使者は呉服や稲作をする範囲を避けて日本海(カン海)を流れに乗って南に漕いでいくと出雲に着く。
    壱岐島に本当に3000余戸も建物があったかどうかが怪しい。
    伊都国が糸魚川周辺。縄文時代からヒスイなどの工芸で栄えていた。
    そこから長野県の盆地へ入って、広大な関東平野に抜けた。群馬や埼玉のように耕作面積があるのは日本中でココだけ。
    水行は海を渡るのとは違う。海沿いか川を行く事。関東平野には長い川がある。

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