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【朗読】壺井栄「ひと粒のぶどう」  朗読・あべよしみ



【朗読】壺井栄「ひと粒のぶどう」  朗読・あべよしみ

ついさえ 咲1粒の ブドお口を開いてご覧なさい なブドが1つ入りました よ食べてみ ましょうとても甘くておいしい でしょう右踏みよお前さは今日もこの歌を 歌って いる幼稚園でわって歌と一緒にブドもご 馳走になったんだってよかった ねブドの歌を歌ってねそして本当のブドも 食べたんだよ美味しかった よ胃腸の弱いためにいつもりんごばかり 当てがわれていたお前さんにとってはブド はどんなにか新鮮でおいしかったこと だろうそれを語るお前さんの瞳は全く黒い ブドの粒のようにつやつやしく 美しい ああこの輝く目の色を私はじちゃんに見せ たいお前さんを産んだじちゃんが赤ん坊の お前さんを連れてうえ姿を見せていた時は お前さんの目は いつも力のない鈍い光だっ た赤ん坊を抱えて未亡人になったじちゃん はいつも赤ん坊のお前さんをおわずに抱い てきてい た空襲の激しい中を防空頭巾も持たずに 横浜から平気でやってきてい たお父の出なくなったじちゃんは痩せて 青い顔をしていた牛乳も飲めずに大豆の 入った黒いご飯を食べさせられていたお前 さんは名のこと痩せて青くて顔に小じわが 寄ってい た泣いても大きな声が出なかっ た首も腰も骨が外れたようにグラグラして い たこれで生きているのが不思議なほどだっ た笑顔など忘れたような願望だっ たそんなお前さんにせめて白米のお粥を 食べさせたいと私はうちのありったけの 白米を袋に入れてお土産に持たせ たその白米が5号もあった試しがなかっ た2号か3号かそれを5章大事にじちゃん は持って帰っていっ た今思うにじちゃんは試案に余ると私の とろへ来ていた らしいそして1日止まって少し元気になっ て帰って行っ たそうして最後に家へ来たのが終戦直後の 9月末だったろう かじちゃんは別人のような元気さで タイピストとしてどこかへ勤めるのだと 張り切ってい たその時横浜のじちゃんの家の近くには色 の黒い兵隊が真鍮してきていてその人から

手に入れたとかいうタバコのラッキー ストライクをお土産にくれ たタバコが手に入ったので一刻も早くおじ さんにあげたく ておじさんというのは今の右文のお父さん なのだ よタバコが足りなくて板取りの派や トウモロコシの毛を大王タバコにしていた タバコ好きのお父さんは大喜びで大事に 大事にそれを1日に1本ずつ飲んでい たそしてまだそのタバコが残っている10 月の8日にじちゃんは亡くなったの だ伝法が来た時私たちはどんなに驚い たろうこれはきっと何かの理由で自殺でも したか怪我でもしたに違いないと思っ た終戦直後のこの頃は理由がなくては電車 にも乗れないのでお父さんと私は電報を 見せて横浜までの切符を買い私は服の上に モンペをつけて出かけ たところが病身の私は代々木まで行くと 気持ちが悪くなりお父さんだだけを横浜へ やって内へ引き返し たその時の私の真中には想像できる限りの じちゃんの最後の姿が描かれてい たしかしじちゃんは病気で亡くなったの だっ た横浜の金野台の右文たちの住んでいた 辺りは空襲で焼けた家が多かったのだが 幸せにもけ残ったと喜んでいたのに焼け跡 にはびこったチフスキは右文のたった1人 のお母さんの生命を奪っ た右文よ生まれてわずか1年でこの日お前 さんはみなしごになったの だしかし右文よお前さんがみなしごだった のは葬式までのほんのわずかの間だけだっ た 葬式の日じこの遺言もあってお前さんには もう新しい父と母とができたの だそれがこのお父ちゃんと私なのだ よ行きの電車では1人だった私が帰りの 電車ではお前さんを背負ってい た年取った私が孫のようなお前さんを音部 しているのでどの電車でも席を譲って くれる人がい た私はこの日お前さんのお母さんになった の だ新しいお父さんは押し目の包みを下げて 帰っ た私の兄の孫であり私のおいの息子である お前私たちが生まれて始めて人の結婚式の 度の席についたその郎との間に生まれた お前その孫のように年の日だったお前の父 と母とに私たちはなったの だなんという思いがけないエニであろう かあの痩せてしぼんでうだれた赤ん坊が

私たちの息子になっ たその体に生後1年の重みが足りないだけ お前さんの生命への責任は重たかっ た育つだろう かだがお前さんは育った人波以上に大きな 声も出るようになっ た右踏みよお前は育って いく心にいさかの疑問を抱かずに育って いる私のこの白髪にお前はまだ不信を持た ぬお前の母はじちゃんだと語って聞かして もそれを追求しようとしない お前バカではないお前がそのことに心を 向けるのはいつのこと だろうもしもその時私たちがいなかった なら右踏みよお前さんの幼い日のことを お前さんの父や母のことを誰が語って くれる だろうだから私 は書かねばなら ぬ同居人祝い 右文生後1年のお前さんと私たちとの続柄 はこういう名称で5家年間続いてき たいたずらに過ごしたのではなく実はお前 さんの本石がどこにあるかわからないまま に過ぎたのだそれはお前さんの父の高の 戸籍は広島市にあったためあの原始爆弾で 吹っ飛ばされたままになっていると思われ たから だしかも高は分けして一家を創立したとも 聞いてい た戦争が住んで戸籍を整える時になって お前さんにはそれをする父も母もなかった わけ だ私はここで私の知っている高のことを 少し書かねばなら ぬ私が初めて兄や郎の子の高を見たのは 教理の小豆島であっ た女学校の教師であったお前の祖父の野郎 は心ざしを立てて上京し小学校の夜学教師 をしながら明治大学に学んでいたそして 卒業間際の8年の3 月過労がたたってか心臓麻痺で休止し たお前さんの祖母にあたる正さんはか年5 歳の強しと3歳の孝を連れて23歳の 未亡人となり小豆島に帰ってき たその時なのだやがて正さんは長男の強し を連れて広島へ行った 将来の刑を立てるために勉強するからあと 2年間だけ次男のたを育ててくれと言っ てその2年間を私は高と1つ屋根の下に 暮らしたのだっ た3歳から5歳までの 高私は今その高の姿をはっきりと 思い浮かべることが できる右ふみよなんとそれはお前に

生き写しの姿だっ たろうお前の歌う声お前の泣く声お前の 笑う声それを聞くと私は遠い昔のたしの声 を 思い出し同じ血の流れに驚き続けているの だ高はばにあたる私を姉ちゃんと呼んでい た私は高のこもりをし夜は高と1つとに寝 た2年経って広島の母の元へ高しを連れて 行った時高は私の後を追って泣き叫ん だその泣き声を聞いて私もまた泣きながら 帰っ たそれきり10年ほども会わなかったのは 私が結婚して東京で暮らしていたからで その次あったのは私の父つまり右文のひお じいさんの葬式の時だっ た中学校の制服を着て少年らしく口の周り を産気にくられた強しと高がおじいさんの 棺のそばに突きそってあの丘の上の墓場へ 行く姿を人々はどんなにか驚きと慈しみの 目で見送ったことだろう や郎さんの息子 じゃややんの息子 じゃその共々の声には小さい時新道と言わ れた安郎よりもその妻のマエさんを称える 声の方が多かったに違い ない夫に死に分かれた時そこひのために 視力の衰えかけていた正さんは懸命な道を 選んでたしと別れて暮らした2年間に あんまの学校でその働きで子供たちを大学 にまで出したので あるその正さんがお前さんの広島のおばあ ちゃんなのだ よ女丈夫とも言うべきこのおばあちゃんと お前さんのお父さんのたしは親子でも少し 気が合わぬところがあったよう だそんなことから高は万25歳の青年を 待ちあぐねるようにして無断で文化をした の だろうその一時でも分かるように察する ところ高は自分の羽で様飛び立ちたような 男だったよう だそのたが私たちの前に3度目の姿を表し たのはじちゃんと一緒だっ た見上げるように背が高く水々しい若者 だっ たその前に幾度か手紙をもらっていたので 高が文学を心ざして状況していることを私 は知っていたのだ がこの時の高は文学の話はせずじちゃんと 結婚するからナドになってくれと言っ たそうして私たちは形式の上での度になっ 昭和19年の春で ある横浜の場所を覚えていないが結婚式上 の神社で記念撮影をする2人の上に桜の 花びらが舞い落ちてい

た花嫁の純子は小さい時両親に死別したと いうことだったが影のない明るい女だっ たいかにも高の選びそうなそして高を選び そうな似合いの夫婦だと思っ た田舎でのジャーナリストの高が天々と 職場を変えねばならぬほど昭和19年と いう年は安定のない時代だっ たそうして彼もついに時代の流れに流さ れるように妊娠の妻を残して1人で大陸へ 渡 1人になったじちゃんは次第に目立って くるお腹をもんぺで包んでよくうへやって き たたしがね赤ん坊のものばっかり送って くるのよタオルだのさらしだの毛糸だの 石鹸だのだから私怒ってやったのまだ 生まれもしないのに私にだって何か送っ てってそしたら今度は私の靴送ってきた わ笑うと三日月のように細くなる目をして じちゃんは満ち足りた顔をしてい た身2つになればすぐに追いかけていける という希望が夫に別れて暮らす妻を寂しさ の中に落とし込みもせずこんな笑顔をさせ たのだろう に選曲の激し変化は次第にじちゃんの希望 を薄れさせていくばかりだっ たそれでも顔を合わせるとたしの噂ばかり をし たたしたら赤ん坊に変な名前を言ってきた のよ男なら右文女ならメレだっ てじちゃんが声をあげて笑うので私もつい て笑っ た右踏みよ そうしてお前さんが生まれたの だ 右文なんという耳慣れぬ名前であること よ私がおかしがるとじちゃんは真顔になっ ていったもの だ右文って文学を尊ぶという意味なんで すって よ無学な私は早速地引きを引いてみ たなるほど 右文とは文事を尊ぶこと文学を重んずる ことと ある右踏みよお前さんのお父さんは最大の 希望をお前の誕生に送ったのだろう にそれほどの思いを抱きながらお前の顔も 見ずに死んでしまうと は人の命が散り明太のように捨てられて いる戦争の最中 兵隊ではないジャーナリストのしかも したっぱの若い男の生命が失われたことに ついて世間の人は誰も驚きはしなかっ たむしろ兵隊でなかったことを気がった ほどだっ

たどうして死んだのか直接の原因を私は よく知ら ないただ今になってはっきり言えることは 戦争に行きたくないために点々としながら ついに戦地と陸続きの大陸へまで渡って いったということ だそして兵隊と同じようにむざむざと生命 を捨ててしまったということ だただ兵隊と違っていたのは本当の遺骨が 友人の胸に抱かれて帰ったこと だの最後の職場は南京の大陸神法であっ た戦後引き上げてきたその友人とは同じ社 に務めていたらしい吉崎光一という大阪の 高槻市の人だっ たその人は遺骨を無事に持ち帰ってくれる ために自分の荷物を制限の他に捨てたと いう右文よこんなこともお前さんは知って いてお くれそうしてこのお前さんを産んだ両親の 遺骨は今小豆島の私の成果の墓場に埋め られているということ もその破壊石の下にはお前のおじいさんお ばあさん私のおじいさんおばあさんの骨も 一緒に収まっているということ もさて右よもう来年は小学校へ上がらねば ならぬお前のために戸籍を明らかにせねば ならなくなっ た分かれば私たちの席に入れようと お父さんと相談しながら広島のおばあ ちゃんに手紙を書いたのは8月のことだっ たそして戸籍が分かれば私の方へ入籍 しようという以前からの相談をもう1度て 書き送っ たそうしながら入籍することの過日を将来 のお前の立場にも立ってみて私たちは考え 迷っ た1つ家に父母と呼んで暮らしている 私たちのせいが異なっていることの 不便そこから巻き起こるかもしれぬ複雑な いわば世間にありがちな不快な憶測 そういう不必要な思いをお前さんにさせ ないために入籍しようと考えたのだ があの個性の強いたの血を受けたお前さん なら大きくなってから自分は自分の席にい たかったと言い出しかまいと思ったから だ私たちはできる限りお前に真実を知らし ていきたいと考え続けて いるその私たちがまだ意思の定まらぬお前 の席を勝手に変えて良いものかどう か以前ならば長男のお前は絶対によその 戸籍に入ることはできないのだ が今はそうでは ないだからたやすくも考えたのだ がいざとなればこれは誰にとっても一大事 で

あろうその上お前さんの父はあの戦争の さ中に外地で死んで いる兵隊ならば後報も出ようが廃線で事情 の一変した外地の新聞社ではどんな処置を 取られたか想像もできなかっ たもしかしたら戸籍の上ではお前は孤児で はないかもしれぬもしもそうだったら戸石 簿の上で生きている高はとして承諾の委員 を押さないで あろうもしも押したとなればそれは文書の 偽造になるから だそんなことまで考えているところへ広島 から手紙の返事 で高の戸籍は東京の世田ヶ谷に移っている らしいと言ってき た原子爆弾は新しい戸籍を作った らしく10年近くも昔に転席したものの 調べはつかなかったのかもしれ ぬ私は早速世田谷区役所を尋ね た世田谷の区役所は最近家事で開けたと 聞いていたので無事に戸籍簿が持ち出せた かどうかそんなことまでがお前さんの運命 と絡み合って考えさせられたりし た戸籍がかりの前にだった私は自信のない 声で北沢2丁目247番地を調べてくれる ように頼ん だあったあった右文よお前の戸籍は6年 ぶりでようやく突き止めることができ た誰の後目でもない新しい一家を作った高 の戸石簿には全古守の乱に空白の因が押し て ある万25歳を待ちかねた若いたは万25 歳と1ヶ月目に自分を守として 押し出し1人で頑張っていた らしいそして2年後に妻を 迎え続いてその年に長男を加えて いるそれがお前さんなのだよ右 踏み1枚の戸石棒は長男右文を最後にして 絶対の約束を示して いるお前には親もない兄弟もない見ている うちに小石母は雨降りの街灯のようにかん でき た右文よお前は1人ぼっちだったの だ主戦で消された高とじこの次にお前は 1人生きてい た相続届けも出せないでいるお前は完全 なる孤児であっ た右文よお前はもう私たちの子になったが いい よ陽子縁組をいたしますから戸籍本をお 願いいたします 私ははっきりと言ったのだ よだけど私は言って おくもしもお前さんがお前さんの考え方で そうしたくなかっ

たらいつでもお前さんは元のせいに治り なさいその時のために私はここにお前さん の両家の本石地を明らかにしておく 手続きが住んだら一緒に小豆島へ行ってお 墓参りをし広島のおばあちゃんにも会って こよう

ポプラ社『壺井栄名作集 第7巻』より朗読させていただきました。

右文を主人公に描かれた『孤児ミギー』はこちらです。https://youtu.be/aQ0JPvbAvtc

代表作の「二十四の瞳」再生リストはこちらです。

壺井栄作品リスト

【壺井 栄】
(つぼい さかえ、旧姓:岩井、女性、1899年(明治32年)8月5日 – 1967年(昭和42年)6月23日)は日本の小説家・詩人。主に一般向小説および児童文学(童話)を主領域に活躍した作家で、戦後反戦文学の名作として後に映画化された『二十四の瞳』の作者として知られる。香川県小豆郡坂手村(現在の小豆島町)出身。夫は詩人の壺井繁治。

ボイストレーナー・朗読家の あべよしみです。

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1 Comment

  1. 右文ちゃんは直ぐに引き取られて良かったです。
    第二次成長期に胃の吸収力が強くなることを願っています。
    ブドウのようにぷっくりした黒目がちの輝く瞳が可愛い右文ちゃんになって良かったです。
    あべ様の可愛い声の表現力は誰にも真似できないと思いますす。今日も聴くことができて嬉しいです。有難うございました。

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